2012年5月23日水曜日

公演中止は残念、というのは…

こんにちは。千葉です。

本日、例によって若干斜め方向から(笑)新聞を読んでいたらこんな告知が。

《リヴァプール・オラトリオ公演中止のお知らせ》

気になって確認してみたらその時点ではサイトは更新されていませんでしたので、若干不審に思いつつもなんとなく了解して(できちゃうんです、できるところは)、しばしぼんやり考えました。まあ、出演者の健康じゃなくて主催者の事情、ってことはビジネス的判断からの撤退なのでしょう、それをどうこう言うつもりは全くございませぬ。正直に申し上げて、これを商いとして成功裏に終わらせる成算、あるのかなあとは先から思っていましたから。以前お世話になった方から、ポール・マッカートニーのこういう側面についてご教示いただいたことがありましたので、作品自体には興味はありました。録音や映像に積極的に当たるほどではない、弱い興味とでも言えばいいのかな…




でも自分はまあ聴きに行けませぬ(貧乏だから)。千葉はともかく(泣)、気になっていたのはこれだけの規模の公演、果たして誰が来ると考えて実現に漕ぎつけようというのかな、というマーケティング的な疑問でした。昔の経験を思い返すと、こういうクロスオーヴァーというかボーダーラインというのか、越境的な試みの公演って「間に落ちる」感が否めなかったんです。簡単に言ってしまえばお客様が…先ほど書いた「弱い興味」から先に進んでいただけないような感じがある、とでも申しましょうか。
その後お客様を開拓できているのかな、あたりがつかないままに動かすには話が大きいよね、くらいにぼんやりと意識していた公演だった、のですが。残念。

*****************

なんとなく想像がついちゃうところの仕事みたいだから、ということで残念お疲れ様です、と思う気持ちもあるのだけれど、個人的にですね、「もしかしてこの作品は今のうちに演奏されておくべきなんじゃないかな」って考えもあったんです。「弱い興味」(しつこくてすみません)のほとんどは、そういう面からのものでした。

近年になって、1971年の初演当時は「これ見よがしで浅薄」「皮相とはったりの合成」等々さんざんに酷評された(両方、ショーンバーグの評です)クロスオーヴァーというかボーダーラインというか(しつこいよ)、としか言いようのないとある作品が近年最評価されてきているように思うから、なんです。




レナード・バーンスタインの折衷的作風がある意味で頂点を極めた作品、「ミサ曲」なんですが、近年こんなに録音や映像がリリースされていまして。ケント・ナガノにマリン・オルソップ、クリスティアン・ヤルヴィによる録音が次々に出てきたのには正直驚きました、自作自演盤と抜粋による録音しかなかった状態が本当に長かったですから。作曲家バーンスタインの評価にしても、彼自身がその指揮者としての名声を用いて自ら取り上げることで、なんとか黙殺からは脱したかな、くらいに思っていましたし。

個人的な記憶です。千葉がもう楽器吹くのをやめようかな、と思っていた大学生の頃に音楽の道に引き戻したエムパイヤ・ブラスがこの作品の初演メンバーである、というご縁からこの作品に興味を持って、その後部分的にはロストロポーヴィチによる三つの間奏曲などで部分的に知り、さらに入手した全曲を聴いて特に抵抗なく受け容れられたのを覚えています。タイトル通り曲自体は宗教曲の体で進行し、ミサの典礼文は作品の骨子を作っているけれど、この作品が描くドラマはその骨子、骨格との関係のゆらぎ、でしょうから、特に基督教の人でなくとも受け容れられる、近代人の自我のドラマだと思います。興味のある方はおそらく部分的になら動画サイトとかで視聴できると思いますよ、「bernstein mass」でどうぞ。


この作品に10年ほど先立つ、英語圏の特異な宗教音楽として思い出されるのが先日少し触れましたのがブリテンの「戦争レクイエム」。なかなか難儀な作品だし、容易な比較もどうかと思うのでここで簡単に取り上げてどうのこうのと言うつもりはありませんが、このタイミングなので一つだけリンクを貼って合掌しておきましょう。その話はまた後ほど。





本筋に戻ります。思うにですね、現時点でリヴァプール・オラトリオが傑作として相応の評価を受けているとは思わないし、何より千葉も未聴であります。そんな認識で何がどうのこうのと断定的なことはさすがに言えません。
ただ、こう思っているんです。バーンスタインの「ミサ曲」がそうであったように、多く演奏され広く聴かれる中で作品が受け容れられていく可能性はあるし、その中で冷戦が終わった1991年に発表されたこの作品が評価されていく可能性はある、と思っているのです。その一歩目になり得たかもしれない公演の中止を、そのありえたかもしれない可能性において残念に思うのだよワトスンくん。1971年の作品がその時代を離れて21世紀にそれなりに受容されるようになる、もしかして1991年の作品にもその時が来る、かもしれない。来ないかもしれない。その結果はわからないし、こうして機会が失われることでここから再評価が始まる世界線は消え失せました。残念。

時が経って、その時代のコンテクストや演奏スタイルなどが抜け落ちたところで捉え直され評価を受ける。なかなか不思議なことではあるけれど、千葉が思うに、同時代では見えないこと感じ取れないもの、「聴こえない」ものもある、のかも。冷戦の直後に作られた「リヴァプール・オラトリオ」、もしかして21世紀の今なら、また違う聴こえ方になる、かもよ?(繰り返しますが、未聴であります)

イージーリスニングに近いライトクラシックでは越えられないボーダーを超えることに成功したクロスオーヴァー的な作品は、キワモノじゃなくてエポックメイキングなものとして受容されえますからね、きっと。それに、一般に新しい作品は演奏され聴かれることで「成長」する、なんて言われますからね、これに懲りずに挑戦的な企画がまた行われますように、と無責任な外野としては期待しておきたいと思います。では今日はこのへんで、ごきげんよう。



でもね。そうやって再評価を受けたあと、大事にされるのは初演前後の、同時代性の強い録音だったりするわけで。なんとも悩ましいですね(笑)。

2012年5月19日土曜日

101回目の命日には出遅れたけれど

こんにちは。千葉です。

昨日は大好きなグスタフ・マーラーの101回目の命日だったとか。昨年一昨年なら全力で食いついたところなんですが、さすがにその二年でいささかネタ切れ感があるとあると申しましょうか、同じパターンを繰り返すのも興が乗らないと申しましょうか。もしかつてのマーラー漬けといっても過言ではない日々についてご興味あるようでしたらリンク先をばご笑覧くださいませ、初年度の没後100年には平日毎日マーラーの録音について書いてましたので(笑)。

今年はフランス音楽に力を入れようと心に決めているのだけれど(あまりアウトプットできていませんが…)、もちろんマーラーを聴いていないわけがない。やると決めたジンマン&TOZの全集を、そのクオリティ相応の扱いでまとめておくための聴きこみとか、何より日常的にその日のフィーリングでいろいろと。あのう、マーラーについての20世紀的「物語」は音楽を聴くのに邪魔になる場合が多いですからね、あまり意識されないほうがいいですよ?もし幼少期から死を意識して~、とか病弱な体で活動を~、とか予言的な作品を~、とか思っていらっしゃるならそれはまさに20世紀の「物語」ですから、こちらの本で解毒しておくことをオススメします。




以前より幸いにも旧館のあるアメブロにておつきあいいただいて、多くの知見やご指摘をいただいて参りました前島良雄さんによる、「精力的に活動し続けた当代最高の名指揮者」にして「夏の間のパートタイム作曲家ではありながら、生前から最高の評価を受けて指揮と作曲の両輪で活躍していた」グスタフ・マーラーの生涯が如何に前のめりの前進し続けた生涯であったかを事実によって知らしめていただける、最後の評伝だと思います。思うにグスタフ・マーラー氏、ゲルギエフよりも指揮してたんじゃないかしらと思える活躍ぶりで、その間に思い悩んでる暇がなさそうなことがよくわかる一冊です。読了後に直接お話させていただく機会が持てたのは幸いなことでした。前島様、その節は…(ちょっとごまかしてみる)

既にマーラーに詳しい人には目からウロコの、それほど知っているわけではない人には最高の入門書になりえていると思います。この本で彼の生涯そのものという「本筋」を抑えてから、俗説の森に分け入る方が安全ですよ(笑)。


さてこういう節目に何を聴くか、と考えて。と思うより先に、最近お気に入りの盤の話をします。



こちらのクラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団他による1994年の録音、何故か最近よく聴いているんです。毎日マーラーを取り上げていた頃に書いた感想と、感触はそう変わらないのだけれどなにか好ましく思えまして。

先日NHK-FMがまとめてラトル&BPhの録音を放送した中にこの曲もありまして。そのサウンドはある程度まで実演の印象から補正して考えるにかなりこなれた、「マーラーの音」になっていたように思えました。さっさとDVDでもCDでもいいから、ベルリン・フィルとの全集をリリースすべきですね、レーベルは。前にDCHの無料放送で視聴した第七番も圧倒的な仕上がりでしたし。

では、彼らの前の時期にはどんな演奏をしていたっけ?と気になってこの盤を出してきましたら、この演奏の柔らかい感触が実に新鮮で。以前「開放的」と書きましたのは、言い換えれば見立てによるドラマの枠組みをあまり硬く作らず、演奏の自然な呼吸に任せる部分が多くあるな、ということでした。第一部が極点の多声宗教音楽、第二部が象徴的戯曲のフィナーレと、音楽外への視線を取り込んでいるこの作品なのだから、個人的にはその性格を活かした演奏をこそ期待してしまうのだけれど、この演奏はそれとは明らかに違う、でもこれはこれで説得的な仕上がりを見せているな、とここ最近聴くたびに感心しています。特に第一部、このポリフォニーがこんなに人間的に響くのかと。いや素晴らしいです。流石です。

*****************

今日言及した盤に限らないのだけれど、指揮者の仕事はその時期により環境により大きく変わっていくことを、できるだけ自覚的して言及するようにしよう、とこころがけています。だから録音の話をするときは、最低限いつ録音されたものかくらいは書いておく。それでまあ、わかる人には「就任から何年目ね、それなら…」とか情報が読めると思いますので。
ことアバドにしても、新鮮な演奏をする目配りのいい若手時代から楽壇の「帝王」ポジションに一時君臨し(これほど似合わない形容、なかなかありませんね)、そして現在の悠々自適(に見える)に至る過程で演奏のスタイル、作品へのアプローチが変わっていることを、ちゃんと踏まえて書かないといけないな、と。だって考えてみてください、私達が知っている録音のアルトゥーロ・トスカニーニはその数十年前にはグスタフ・マーラーのライヴァル指揮者だったんですよ?その頃から同じような演奏をしていたと考えることの不自然、気になりませんか?(私、気になります!と聞こえる変な病気にかかっています)
特に最近気になっている、1980年代に栄華を極めたマエストロたちについて、そういう芸風から見た年譜のようなもの、誰か作りませんかねえ、ここに一人は読者がいますよ~(笑)。

ともあれ今日はひとまずこのへんで。そうそう、マーラー関係ではあと二つほど、ニュースとコンサート関係で記事を明日明後日くらいには書きます。ではまた。

2012年5月15日火曜日

リリース前にお試しあれ!~サロネン&LAPのショスタコーヴィチ(配信終了してます)

こんにちは。千葉です。

先日のプーランクからオネゲルにつながった話の続き、もうちょっとお待ちください、日々書いてますので。いつもよりずっと真面目に。

今日は、千葉には珍しくネットラジオの番組紹介です。ネットラジオといっても生放送ではなく、既にオンデマンドで聴けるようになっているもののお話。

えっと、千葉が好きな指揮者の一人であるエサ・ペッカ・サロネンの新譜、皆さんもうチェックされましたか?ついに、という感じでショスタコーヴィチの交響曲が登場ですよ、それも第四番!やったあ!!




え?ジャケットが気になる?その話はまた後で(笑)。

ついに、と言いましたのは、これまでサロネンはショスタコーヴィチの協奏曲の録音はあったのだけれど、交響曲には手を付けていなかったんです。



ピアノ協奏曲にヴァイオリン協奏曲の第一番。どちらもいいんですが、しかし協奏曲録音は独奏者のもの、という感じがしてしまう、せめて併録が交響曲だったら良かったのに(無理を言ってます、ピアノは時間きに無理だし、ヴァイオリンのほうはコンセプトアルバムですからね…)

コンサートでは取り上げてるんですよ、サロネンは。ベルリン・フィルと第二番(!)を演奏していたりして。プロパガンダ作品扱いされやすいこの曲が、不思議に柔らかい感触で聴けたのが印象的でした。

とは言え、いきなり第二番から取り上げられても困るので(笑)。早く交響曲録音しないかな、聴きたいな、と思っていたところに昨年の12月にショスタコーヴィチ未完のオペラ「オランゴ」と交響曲第四番を演奏する、という情報をツイッターで知り、「きっと録音するだろう!」と決めつけて待っていた甲斐がありました。怠け者ですみません!

そんなわけで、今日はこちらのリンク先、KUSCで現在、オンデマンドでその演奏が聴けるのですよ、というご案内です※。マクバーニーがオーケストレーションした「オランゴ」のプロローグの初演、そして交響曲第四番からなるコンサートがおそらくは一週間かな?聴けます。特にアレもないみたいなので、ああやってこうやればごにょごにょ。「オランゴ」のプロローグが約40分、交響曲は約一時間ですから、じっっっくりお楽しみいただけます。ちなみにCDの方も二枚組です。うむ。

「オランゴ」のストーリィはラジオで繰り返し「Sci-Fi」と言われているとおり、ある種のSFです。遺伝子交配により作られた人間とオランウータンのハーフが「オランゴ」、CDのジャケットがまさにその
「彼」ですね(笑)。その彼を巡るドラマということのようなんですけど、基本喜劇のトーンで作られているのかな、と一聴したところでは感じております。1932年の作品ということで、時期的に近い「ムツェンスク郡のマクベス夫人」にも似た雰囲気の曲があったり、マクバーニーがおそらくはショスタコーヴィチのバレエ等を参照したと思えるオーケストレーションを施したようなので、初めて聴くのになにか馴染めてしまう、不思議なテイストがあるかと。

交響曲の方は、先日「メーデー」の件で少し書いたような「ポスト冷戦期のショスタコーヴィチ」ではなくて、「21世紀のショスタコーヴィチ」になっている、かもしれません。ショスタコーヴィチなのにそうくるか、と思わせられることも何度となくありましたよ。
とは言いながら、ネットラジオの限界故音響的には判断できかねるところもあり、できればCDで確認してから詳しく書きたいと思います。

ということで簡単な感想と新譜紹介、でした。ではまた。

※5/20より、次の公演が配信されています。意外な感触が独特なショスタコーヴィチかなと思われますので、ぜひCDでどうぞ!

2012年5月13日日曜日

私、気になります!(可愛く言ってもムダだ)


こんにちは。千葉です。

現在、フランス音楽学習の一環としてこの本を読んでいます。




プーランクという作曲家、どうにも捉えがたいんですよね。吹奏楽でも演奏される洒脱な「フランス組曲」から彼の音楽を聴くようになったのだけれど、ピアノ曲と声楽曲が活動の中心にあるのではどうにも遠い。吹奏楽関連以外にクラシックを聴くようになってからは聴くものも増えましたし、バーンスタインを本格的に聴き始めてからはますます。
そんな中で聴いたのがプーランクの「グローリア」(1959-60)。たしか、ストラヴィンスキーの詩篇交響曲めあてで買った盤のカップリングだったような。その盤をはじめて聴いた時は戸惑ったことだけを覚えています、詩篇交響曲が独特な(笑)曲であることもそうだけれど、イメージの中にあったプーランクとはかなり違う感触に。(現在は入手困難みたいですね、明暗のコントラストが鮮烈だったと記憶してます)

その後、ピアノ曲や室内楽曲、バレエ音楽「牝鹿」なども聴くようにはなり、幸いなことにオペラ「人間の声」をジェシー・ノーマンの歌唱で聴く機会も持てて、その頃にはある程度の時代的「あたり」だけは付けられるようになっていたので相応に受け止めて(ノーマンの、歌唱どうこう以上の「存在の大きさ」には大いに感服させられましたが)。それでも、今になってもプーランクが掴めたような気は全くしない、のです。作風の幅はオペラ三作を見るだけでも相当のものですし(六人組に対するかつてのイメージは「ティレジアスの乳房」的な、いわゆる「軽妙洒脱」なものでした、と申し添えておきましょう。そんな一面に還元できるわけ、ないのにね)、その生涯についてもほとんど知らないままだなあ、と思いまして先ほどの本を読みはじめた次第。

でまだ読了していないのにこういうことをするのはどうかと思うし、こういう振舞いにはいささかの脇の甘さと、何より愚かしさを自分に対して感じてしまうところなのだけれど、それでもちょっと看過し難いもの、あるんです。
私は素人で基本的に無力な一個人だから(笑)、対象の書名を挙げずに「こういう書き方は嫌いだ!」ってあてこすろうかとも思いましたが、流石にそれは陰険すぎて自分に対して「こういう以下略」って書く羽目になりかねないので。


上掲書の冒頭に、プーランクの年譜があるのですが、その中に以下のような記載がございまして。以下抜き出して引用。

p.60
四二年
(中略)
六月、オネゲルの五十歳を祝う催しがパリで何度も開かれる。占領下、ドイツ音楽を敬愛しているプロテスタントのこのスイス人作曲家はなかなか羽振りが良いが、これはけっして偶然ではなかった。
(後略)

p.62
四四年
(中略)
八月十九日、抵抗の火蓋が切られ、二十五日、激しい戦闘の後、パリは解放された。アメリカ軍がやってきた日、プーランクは「窓に三色旗を掲げ、自室の楽譜棚には<人間の顔>のスコアを置いた」という。解放後しばらく、占領下では華々しく作品がとりあげられていたオネゲルの名がコンサートのポスターから消えてしまう。

(後略、引用終り)


まあ、事実関係を書くのはいいですよ、ええ。年譜だもんね、うんうん。
でもさあ、著作が対象としているのとは別の作曲家について、年譜でこうも意味ありげにちらっと触れて、あとは何もなかったように必要に応じて名前を挙げるだけ、ってのはどうなの。この文章だけを見ると、まるでドイツ占領下において優遇されたオネゲルには相応の問題があるのだ、と言われているような気がしてしまう、それで頭に血が上って読み進められなくなるくらいには、千葉はオネゲルの音楽が好きなんです。

そう、読書を通じて事実を知るとかそういうのは抜きにして、感情的に反発を感じて読み進めるのを一時止めちゃいまして。これがフランス人の文章ならありだと思う、でも当事者でもなければ当時を直接に知っているわけでもない日本人の著者がこういう物言い、していいものかしらん。占領という極限状況にあった人々の様々なあり方、こういうほのめかし程度の書き方、どうですか?旧ソヴィエトの芸術家たちを「党の宣伝役」と蔑んだ冷戦下の合衆国のような敵対関係ならまだしも※、20世紀の終わりに日本人がこういう断罪をするの、ありですか?

※最近読んだ本で、合衆国の共産党員芸術家忌避には赤狩りの記憶からくる過剰反応がある、ような気もしています。その本の感想はまた別途。

こういうところが嫌いなんですよ、20世紀のポストモダニスト。こういう語りでもって非限定的に対象「について」の語りを行うことを、倫理や道徳とは関係のないところで成立する「批評」だということにしたいのだろうけれど、その言説がメタレヴェルからの語りであることで生じる最終的な無責任性が漂わせる不愉快な臭気、書いている方は気にならないのかな。事実に対して超越的立場を取らず、語りそのものの不確定性の中で宙吊りでいることを自覚しつつ語ることで言説内部に矛盾を取り込むことでどうのこうの(今考えて適当に書きました、誰かの言の真似とかではありませんよ)、とか日記にでも書いておけばいいのに。

*************

ああああああすみません、自分で普段思っているのよりずっと、ポストモダニストのことが嫌いなようです、私。ソーカル事件なんか持ち出さなくても、好事家のお遊戯に見えてしまうもので。少なくとも、その手法の創始者はよくても模倣者たちは、もう。

えっと、ちょっと方向が違うところに向いちゃったのでここで一度切ります、前編ということで。後編ではあっと驚く展開が!(嘘予告)ではひとまずはこれにて。


Charles Munch Box - Berlioz; Franck; Brahms; etc/ Munch; PCO; etc [222357]


パブリックドメイン音源をまとめたこの四枚組に、まさに問題の時期である「1942年10月&1944年3月に収録された」とあるオネゲルの交響曲第二番が収録されています。終楽章にトランペットが鳴り響く以外は弦楽オーケストラ編成の曲ですから、この時期の録音でもけっこう聴けますよ。
ブロッホのヴァイオリン協奏曲(シゲティ独奏!)とか珍しい曲も収録されていて、ミュンシュの音楽が好きな方にはオススメです。




※部分で触れた本はこちら。バーンスタインが好きなら名前くらいは知っているだろうダンサーで振付師のロビンスの生涯を通して見えてくるアメリカ合衆国の姿、なかなか興味深いものです。

2012年5月9日水曜日

遅ればせ、ではありますが


こんにちは。千葉です。


この数年、5月最初の日には必ずある曲の話を、お決まりとしてしてきたのに、もうゴールデンウイーク終わってますよ!ありえない!

…とはいえ、この遅れにはいちおうの理由があります。曲との関係も大ありで。お決まりで取り上げているその曲はショスタコーヴィチの初期の攻撃的な作品、交響曲第三番です。題して「メーデー」。

交響曲とはいうけれどいささか独特すぎるこの作品、歌詞がまあ、旧ソヴィエトのものでありますから、昨今ではそう演奏されるものではない。千葉の大学時代の友人は歌詞だけでかなり引いてましたしねえ…それにことショスタコーヴィチの交響曲と言えば、まあ第五番以降の、あとは七番、十番あたりがかろうじて知られている感じ、なのかしら(自分は濃い人なので、自分の認識には一般性がないと自覚してます)。初期の一曲ずつ独自のルールで作られた作品も、その集大成であり画期でもある第四、巨大な第八番やいささか貶められすぎた感のある第十一、十二番、そして晩年の境地である最後の三作、どれもいいんですけどねえ。
ちなみに第三番、いくつか気になった実演はあったのだけれど、千葉も未だコンサートで聴いたことがない。井上道義さんのショスタコーヴィチ祭りで聴き逃したのは大きかった、のでしょう。大編成に合唱付き、かなり実演映えする曲であろうとある程度以上の確度で見当をつけてはいるんですけどね…

昨年までは、ある種の反時代的行為として(笑)、この曲を「五月最初の日、メーデー」(前にテレビの字幕では合唱の歌詞冒頭をこう訳していたけど、間違いですよね)に聴いてきたのだけれど(その過去はこのブログの旧館の方でご覧いただけます、リンク先など参照ください)。今年はですね、ちょっとニュースを見てしまったら、いわゆるドン引きをしてしまいまして。

あのう、昨今野田佳彦くんが政治生命を賭けるとか言っている「消費増税」(もろもろの一体改革と言いながらこっちばかり進めようとしている現状が雄弁に語るもの、明々白々ですね)を連合が主催したメーデーの集会で力説して、不穏当な言い方になるけれど無事で帰れてしまうような状況でしょうかね、いま。千葉の認識違いなのかとも思うけれど、「労働者の祭典」で為政者が無神経に口走って許される類の物言いではないんじゃないですか?

時事ネタはこっちでは書かないつもりだったけれど、このお題ばかりは仕方がない(もう一つのこの時期のお決まりは、クラシック音楽が絡められないから向こうに居残りです。あっちも相当…な状況ですね)。(笑)なしの反時代行為として、数日遅れだけれどこの曲の話をします。キルサーノフによる歌詞の最終節を引用して現状への異議申し立てとしましょうか…

メーデー、それは歩み、
武力に打ち勝った労働者の歩みだ。
広場という広場に、革命よ、
幾百万の歩みを打ち込もう!
(コンドラシン&モスクワ・フィル国内盤所収の一柳富美子氏による訳から一部引用)

ったく、勝ち取るための戦いは先達がしてくれたのだから、それを失わないために戦いをやめないのが受け継いだものたちの義務だろうがよ…武力による革命なんか期待はしません(権力を奪取した組織もまた腐敗するに決まっている)、でも否応なくかかわらざるを得ない不断の戦い、あるでしょうが…


まあいいや、ショスタコーヴィチの話に行きましょう。
でもねえ。さすがにあまり人気のない曲、録音が少ないんですよう。過去に全集録音のある指揮者のものを聴いてきて、けっこうネタ枯れ感が否めない。これまでに演奏にまで踏み込んで紹介した盤を除くと、あとは手元には二つくらい、加えて某配信で聴けるいくつか、かな…配信で聴けるもので演奏を判断するの、何度か試してみたんですがどうもね。トラックごとに途切れ途切れだったり、厚みのない音質が気になったりして演奏をうまく受け取れない(後者はパソコンのせい、なのかしら)。結果、現時点ではCDで聴けるものから対象を決める他、ないのです。

で、今年選んだのはこちら。




エリアフ・インバル指揮ウィーン交響楽団による交響曲全集の一枚、第九番&第三番を収録したものです。録音は1992年10月、リリースがいつかは覚えてないけどもう録音から10年になるんですね…千葉が最初に揃えたショスタコーヴィチ交響曲全集なんですよ、これ。まさか一枚あたり1,000円なんて廉価で売られるようになるとか計算なんてせず、DENONの優秀録音と、なにより「西側」での冷戦後の全集、ということで迷いなく買い揃えました。
大好きなコンセルトヘボウ管は好いけれどロンドン・フィルに信用がおけずいくら推薦されていてもハイティンクのものは採れず。それにあれは冷戦期の録音でもある、そこにあり得ただろうバイアスが気になる。さらにバーンスタインなど他の好きな指揮者の録音は全集ではない。
一方、これまた予想される「東側」のバイアスが気になるから選べない(そこにロシアのオーケストラやレーベルに対する偏見、先入観があったことも否めない、なにせ当時はものを知らなかったから)。
できるなら、政治的意図やバイアスから離れて、ニュートラルな演奏を聴いてみたい、その上でショスタコーヴィチの音楽に近づきたい。確かに千葉青少年はいささか頭でっかちなアプローチをしたものだとは思います、でもお財布の中身が乏しければ嫌でも戦略的に買い物するんです!(笑)

買い揃えていた当時の記憶、あまり鮮明ではないのです。この全集で学んだ曲も多いから、当時は批判などしようもないし。ですので、今の耳で聴いた率直な感想を。

一言でいいますれば、角がない、なさすぎる!

ウィーンのオーケストラをパートナーに選んだのは、おそらくは千葉が当時好感した「西側からの、冷戦後のショスタコーヴィチへの挑戦」という理由もあっただろうと思うのです、根本的には経済的なこととかまあ、ありそうだけど。でもマーラーを録音し、全集に先行する形で第五番を録音したフランクフルト放送響(現在のhr響)とは違う味わい、これはこれでなかなかのもの、ではないかと。この音だから生まれた、と思える新鮮な効果もいろいろとありますからね。例えば第三番なら、冒頭からの音楽の柔らかさ、美しい音色は題名から想像されるようなイデオロギッシュでゴリゴリな音楽、という印象とはかなりのギャップがあります。一度使った主題が回帰しない、いわばある種の一方通行の「旅」のように作られたこの作品では部分部分の印象、大事ですから。

ですが、やはりこの曲に必要な蛮勇というか、「暴力」の気配が決定的にない、ように思います。特に残念ながら、ソリスティックに活躍する管楽器が。トリッキーなフレーズを音にするので一杯いっぱいに思われる、正直なところミスも散見される(セッション録音なのに…)。弦楽器に合唱も、ちょっと響きを優先したのか上品にすぎる。いや何も下品に弾けと言うのではないのですが、録音の特徴とあいまって声部の線より響きを優先したように思われるこの演奏、毒が薄すぎるのではないかと。未来派の余韻なのか、いささか過剰なまでに肯定的な、真意の見えにくいこの音楽が収まりよすぎというか、落ち着いちゃってるというか。ニュートラルに作品そのものを聴きたいとは言ったけれど角が落ちてしまったら意味がないんだよう。

思うにですね。インバルさんは昨今好調が伝わる(Twitterなどで。実演聴きたいなあ…)東京都交響楽団とですね、ショスタコーヴィチを全集にしちゃうの、どうでしょう。千葉はフランクフルト放送響退任後にしかインバルの演奏を聴いていないのだけれど、録音では伝わりにくい、異様なまでの外在化とでも言おうか、作品との距離感が刺激的だったんですよね。それがこういう曰く付きの曲だとどうなるのか、実に興味があります!もちろん、第二や第三が演奏される時にはコンサートにも行きますから!

ってことでひとつよろしくちゃ~ん、と手前勝手な願望を書き散らかしてお終いです。ではまた。




フランクフルト放送響との録音で、一枚だけリリースされた第五番、こちらはかなり角のある(笑)演奏です。このまま全集化してくれればよかったのに、とは思うけれど、ポストとかいろいろあったのでしょうきっと。

都響との録音は未聴ですので(実演どころじゃない!不勉強だ!)コメントはいたしかねますが、昨今の好評をちゃんと認識したいものです、良かったとは聞くけれど今ひとつイメージが持てていないもので。勉強勉強。