2012年5月9日水曜日

遅ればせ、ではありますが


こんにちは。千葉です。


この数年、5月最初の日には必ずある曲の話を、お決まりとしてしてきたのに、もうゴールデンウイーク終わってますよ!ありえない!

…とはいえ、この遅れにはいちおうの理由があります。曲との関係も大ありで。お決まりで取り上げているその曲はショスタコーヴィチの初期の攻撃的な作品、交響曲第三番です。題して「メーデー」。

交響曲とはいうけれどいささか独特すぎるこの作品、歌詞がまあ、旧ソヴィエトのものでありますから、昨今ではそう演奏されるものではない。千葉の大学時代の友人は歌詞だけでかなり引いてましたしねえ…それにことショスタコーヴィチの交響曲と言えば、まあ第五番以降の、あとは七番、十番あたりがかろうじて知られている感じ、なのかしら(自分は濃い人なので、自分の認識には一般性がないと自覚してます)。初期の一曲ずつ独自のルールで作られた作品も、その集大成であり画期でもある第四、巨大な第八番やいささか貶められすぎた感のある第十一、十二番、そして晩年の境地である最後の三作、どれもいいんですけどねえ。
ちなみに第三番、いくつか気になった実演はあったのだけれど、千葉も未だコンサートで聴いたことがない。井上道義さんのショスタコーヴィチ祭りで聴き逃したのは大きかった、のでしょう。大編成に合唱付き、かなり実演映えする曲であろうとある程度以上の確度で見当をつけてはいるんですけどね…

昨年までは、ある種の反時代的行為として(笑)、この曲を「五月最初の日、メーデー」(前にテレビの字幕では合唱の歌詞冒頭をこう訳していたけど、間違いですよね)に聴いてきたのだけれど(その過去はこのブログの旧館の方でご覧いただけます、リンク先など参照ください)。今年はですね、ちょっとニュースを見てしまったら、いわゆるドン引きをしてしまいまして。

あのう、昨今野田佳彦くんが政治生命を賭けるとか言っている「消費増税」(もろもろの一体改革と言いながらこっちばかり進めようとしている現状が雄弁に語るもの、明々白々ですね)を連合が主催したメーデーの集会で力説して、不穏当な言い方になるけれど無事で帰れてしまうような状況でしょうかね、いま。千葉の認識違いなのかとも思うけれど、「労働者の祭典」で為政者が無神経に口走って許される類の物言いではないんじゃないですか?

時事ネタはこっちでは書かないつもりだったけれど、このお題ばかりは仕方がない(もう一つのこの時期のお決まりは、クラシック音楽が絡められないから向こうに居残りです。あっちも相当…な状況ですね)。(笑)なしの反時代行為として、数日遅れだけれどこの曲の話をします。キルサーノフによる歌詞の最終節を引用して現状への異議申し立てとしましょうか…

メーデー、それは歩み、
武力に打ち勝った労働者の歩みだ。
広場という広場に、革命よ、
幾百万の歩みを打ち込もう!
(コンドラシン&モスクワ・フィル国内盤所収の一柳富美子氏による訳から一部引用)

ったく、勝ち取るための戦いは先達がしてくれたのだから、それを失わないために戦いをやめないのが受け継いだものたちの義務だろうがよ…武力による革命なんか期待はしません(権力を奪取した組織もまた腐敗するに決まっている)、でも否応なくかかわらざるを得ない不断の戦い、あるでしょうが…


まあいいや、ショスタコーヴィチの話に行きましょう。
でもねえ。さすがにあまり人気のない曲、録音が少ないんですよう。過去に全集録音のある指揮者のものを聴いてきて、けっこうネタ枯れ感が否めない。これまでに演奏にまで踏み込んで紹介した盤を除くと、あとは手元には二つくらい、加えて某配信で聴けるいくつか、かな…配信で聴けるもので演奏を判断するの、何度か試してみたんですがどうもね。トラックごとに途切れ途切れだったり、厚みのない音質が気になったりして演奏をうまく受け取れない(後者はパソコンのせい、なのかしら)。結果、現時点ではCDで聴けるものから対象を決める他、ないのです。

で、今年選んだのはこちら。




エリアフ・インバル指揮ウィーン交響楽団による交響曲全集の一枚、第九番&第三番を収録したものです。録音は1992年10月、リリースがいつかは覚えてないけどもう録音から10年になるんですね…千葉が最初に揃えたショスタコーヴィチ交響曲全集なんですよ、これ。まさか一枚あたり1,000円なんて廉価で売られるようになるとか計算なんてせず、DENONの優秀録音と、なにより「西側」での冷戦後の全集、ということで迷いなく買い揃えました。
大好きなコンセルトヘボウ管は好いけれどロンドン・フィルに信用がおけずいくら推薦されていてもハイティンクのものは採れず。それにあれは冷戦期の録音でもある、そこにあり得ただろうバイアスが気になる。さらにバーンスタインなど他の好きな指揮者の録音は全集ではない。
一方、これまた予想される「東側」のバイアスが気になるから選べない(そこにロシアのオーケストラやレーベルに対する偏見、先入観があったことも否めない、なにせ当時はものを知らなかったから)。
できるなら、政治的意図やバイアスから離れて、ニュートラルな演奏を聴いてみたい、その上でショスタコーヴィチの音楽に近づきたい。確かに千葉青少年はいささか頭でっかちなアプローチをしたものだとは思います、でもお財布の中身が乏しければ嫌でも戦略的に買い物するんです!(笑)

買い揃えていた当時の記憶、あまり鮮明ではないのです。この全集で学んだ曲も多いから、当時は批判などしようもないし。ですので、今の耳で聴いた率直な感想を。

一言でいいますれば、角がない、なさすぎる!

ウィーンのオーケストラをパートナーに選んだのは、おそらくは千葉が当時好感した「西側からの、冷戦後のショスタコーヴィチへの挑戦」という理由もあっただろうと思うのです、根本的には経済的なこととかまあ、ありそうだけど。でもマーラーを録音し、全集に先行する形で第五番を録音したフランクフルト放送響(現在のhr響)とは違う味わい、これはこれでなかなかのもの、ではないかと。この音だから生まれた、と思える新鮮な効果もいろいろとありますからね。例えば第三番なら、冒頭からの音楽の柔らかさ、美しい音色は題名から想像されるようなイデオロギッシュでゴリゴリな音楽、という印象とはかなりのギャップがあります。一度使った主題が回帰しない、いわばある種の一方通行の「旅」のように作られたこの作品では部分部分の印象、大事ですから。

ですが、やはりこの曲に必要な蛮勇というか、「暴力」の気配が決定的にない、ように思います。特に残念ながら、ソリスティックに活躍する管楽器が。トリッキーなフレーズを音にするので一杯いっぱいに思われる、正直なところミスも散見される(セッション録音なのに…)。弦楽器に合唱も、ちょっと響きを優先したのか上品にすぎる。いや何も下品に弾けと言うのではないのですが、録音の特徴とあいまって声部の線より響きを優先したように思われるこの演奏、毒が薄すぎるのではないかと。未来派の余韻なのか、いささか過剰なまでに肯定的な、真意の見えにくいこの音楽が収まりよすぎというか、落ち着いちゃってるというか。ニュートラルに作品そのものを聴きたいとは言ったけれど角が落ちてしまったら意味がないんだよう。

思うにですね。インバルさんは昨今好調が伝わる(Twitterなどで。実演聴きたいなあ…)東京都交響楽団とですね、ショスタコーヴィチを全集にしちゃうの、どうでしょう。千葉はフランクフルト放送響退任後にしかインバルの演奏を聴いていないのだけれど、録音では伝わりにくい、異様なまでの外在化とでも言おうか、作品との距離感が刺激的だったんですよね。それがこういう曰く付きの曲だとどうなるのか、実に興味があります!もちろん、第二や第三が演奏される時にはコンサートにも行きますから!

ってことでひとつよろしくちゃ~ん、と手前勝手な願望を書き散らかしてお終いです。ではまた。




フランクフルト放送響との録音で、一枚だけリリースされた第五番、こちらはかなり角のある(笑)演奏です。このまま全集化してくれればよかったのに、とは思うけれど、ポストとかいろいろあったのでしょうきっと。

都響との録音は未聴ですので(実演どころじゃない!不勉強だ!)コメントはいたしかねますが、昨今の好評をちゃんと認識したいものです、良かったとは聞くけれど今ひとつイメージが持てていないもので。勉強勉強。

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