2013年10月23日水曜日

今からでもショルティを見直したい(ぼんやりな見解だ

こんにちは。千葉です。

…無沙汰のお詫びももうネタがありません。こういうペースだとあきらめてください(一番あきらめてるのは千葉なのですが…)。ひとつだけ申しますなら、いわゆる「芸術の秋」なんて大っ嫌いだ、ということでしょうか…(あと千葉をして失語に陥らせる昨今の状況。これはあっちに書かなくちゃ…気が重いです、率直に申しまして)

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さて気分を変えていきましょ。一昨日の夜に知ったので記事にするのが遅くなりました。10月21日はサー・ゲオルグ・ショルティのお誕生日であるとか。1912年生まれだから101年目、ですね!(なにか時宜を逃している感が酷いので勢いだけ出してみた)旧館の方でさんざんマーラーを聴きまくった時期に(2010年のことだから、もう自分の中では昔話感があります)、その昔の偏見を改めて今では率直に尊敬するマエストロのお一人となっております。

なお、その「偏見」についてはまた別途、吹奏楽出身者にはいろいろとあるんですよ。いま考えればそういう偏見を垂れ流す方の見識にこそ問題があるのだけれど。そういう偏見を疑えない弱い自分の知性に問題があったのだけれど。
幼かった時期は仕方がないかもしれない、でも問題に気づいたのならそれは拭うべき、だろうきっと。いくつかの要素だけ先行して挙げておくならば、オペラ指揮者としてのショルティ認識、そしてその造形性というターム、でしょうか。なにが縦線だけ揃えたパワー重視の演奏だよったく。

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そんな記念日に、最近入手した彼の録音の中でも一番のお気に入りの盤を、長すぎて全曲は無理だけど第三幕だけ、聴いてみました。




右のボックスにはウィーンフィルとの旧盤ほか、誉れある名盤の数々が収められております。でもここで言及するのは左のほう、シカゴ交響楽団との「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(以下マイスタージンガー)新盤です。すこし前に図書館で借りて聴いて、「あれこれとてもいい演奏だと思うのだけれど」と気にしていたものなのです。かなりのお値打ち価格のタイミングで入手できて、ほんっとよかったですよ。にやにや。

このマイスタージンガー新盤のブックレットにはショルティ自身のコメントが載せられているのですが、これだけでこの盤の紹介になるような文章だと思うのですよ、輸入盤を買ったから国内盤のことはわからないし、もちろん英語なので、拙訳で大意というかいいなあと思ったところを書き出しますと。

・二度録音したワーグナーの全曲はマイスタージンガーだけ、ということになる
・ふとラジオから流れてきたマイスタージンガー、その序盤のポーグナーの歌に心動かされた、美しい音楽であるなと再認識。
・モーツァルトやヴェルディの経験を踏まえて、ワーグナー作品へのアプローチは変わった。いまいちど立ち返ったこの作品は「対話による作品」なのだな、と感じる。もっと軽く、室内楽的でもある。
・コンサート上演の利点はその明晰なサウンドにある。もちろん、シカゴの強力なメンバーの能力も素晴らしい
・つまるところ、自分はかつての演奏、録音から数十年の時を経てまたこのオペラに恋をしたのだ

などなど。分量としてはブックレットの1ページでしかないけれど、熱いマエストロの思いが伝わる文章ではないかと。

個人的にですね、ノリントン&LCPの前奏曲を聴いて以来こういう演奏を待っていた、と思える演奏なのです、これ。もちろん強力なオーケストラのサウンドは同時代アプローチのロンドン・クラシカル・プレイヤーズにはない、だからノリントンの盤から千葉がイメージしたものと同じではない(モダンオーケストラのサウンドというのはあれですね、ずっしりどっしりした肉料理になぞらえるべきものなのかもしれませぬ。ちなみにいわゆる古楽器演奏はうまく空気を含ませたパイ料理とか、近いような。ここで詳しく説明はしません、わかる方だけわかってください←誰にも伝わらないフラグ)。かつて新国立劇場でシュテファン・アントン・レックの指揮で聴くことができた軽やかなマイスタージンガーはイメージに近かったような気もする、でも検証のしようもないしリプレイもできない、それに上演が2005年のことではもう記憶もあまり信用できない…(新国立劇場はアーカイヴを作る義務があるのではないかしら、国立の施設なのだから。ダイジェストじゃなくてさ)。

そんなヴァルターの推敲前のマイスターリート以上にぼんやりとした(何様だ)千葉の渇望を、ある程度まで音にしてくれているのがこの盤だなと、聴き直してしみじみと思うのです。おなじみのいささかも緩まない引き締まったテンポ、対話を重視した歌、作品の民衆的な性格に十分配慮したカジュアルなにぎやかさ。「トリスタンとイゾルデ」の悲劇と対になる喜劇として構想された作品を、そのめんどくさい歴史やら過剰な浪漫性を削いで本来性に立ち戻らせた一枚では、と評価する次第、なのです。ショルティ最晩年の大仕事のひとつ、という以上の価値を見出しうると思うんだけど、あまり評判を聞きませんなあ…いちおうレコード・アカデミー賞を取ってはいるけど受賞が没年のことだから功労賞感が否めないとかあの賞自体が以下自重。

ああ、別に「もっと評価しろよ!世間!」とか喧嘩を売りたいんじゃないんです、ただ素朴に、「これを聴かないなんてもったいない!」と申しておるのです。これはあまりに素朴な気持ちですので、彼のお誕生日にでも関連付けないとちょっと人前に出せなかった、という、それだけの話で(笑)。

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最晩年にはメジャーレーベル最後の砦のような扱いになって、それまでほどは低められなくなったように思うけれど、正直に申し上げてサー・ゲオルグ・ショルティがその仕事に見合った評価をされているとはどうも、思えないのです。いや、彼にかぎらず合衆国で活躍した、そして来日公演などでその演奏に触れられたはずのマエストロたちへの敬意が、妙に薄いと申しましょうか。オーマンディもそう、レヴァインもそう、もしかすると、小澤征爾についても同じことが言える、かも。
その大きいお題については最初の「偏見」ともどもおいおい考えますので、いまは指摘のみにとどめます。あ、もし考えたい方がいらしたらぜひ、さっさとまとめてくださってもけっこうですのよ!(投げるな)

大きすぎるお題に手をこまねいて筆が止まらぬよう、日々精進したく存じます。近いうちに再見できますようお祈り申しあげつつ今日はこれにて。では。



本文中でさらっと挙げたノリントン&LCPのワーグナー(&ブルックナー)、彼らの数多くの録音の中でももっと注目されるべき一枚であるように思えるのですが如何かしら。それこそ例えばショルティ&CSOなどと比較すればモダンオーケストラと「作曲された当時の」オーケストラの音響の違いがこの上なくはっきりとわかるのですが。