2016年12月31日土曜日

1月1日に「ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート2017」放送

こんにちは。千葉です。

恒例の放送の季節です。もう何度これを書いたことでしょう(壊れてきました)。そろそろゴールしてもいいよね(笑)。

●ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート2017

今回の指揮者はグスターボ・ドゥダメル。なんというか、指揮者の選択において数世代すっ飛ばした感がありますがそれでいいのかウィーン・フィル(笑)。

というツッコミはさておいて、NHK Eテレでは19時から、NHK FMでは19時15分からの放送です。曲目などはすでにオーケストラのサイトで発表されていますが、見る限りでは穏当な選曲なのかしら。そうであれば注目すべきは演奏そのもの、ということになりましょうか。いや、彼の場合は指揮姿になるのかな?(まだ実演を聴けていない人には少し慎重になる系)

ともあれ、1981年生、ベネズエラ出身の若き指揮者がさらに世界的な存在となるイヴェントになることは間違いないところ。これであれですかしら、次の来日公演はますます聴きにいけなくなって…というパターンでご縁がないままかも。彼の場合、欧米でも人気だから「現地に行けば」とも考えにくいですし。むむむ。
いや、先の心配をしても仕方がない。とりあえずは放送を楽しみましょう、ご縁があれば聴くこともありましょう(最近、こんなふうに悟って来てしまいました)。



これは今年の10月にカーネギーホールで演奏したもの。オケはおなじみシモン・ボリバル交響楽団(かつてのシモン・ボリバル・ユース・オーケストラ)です。まあ、別物になることでしょうね(笑)。

なお、コンサートはBSプレミアムでも後日放送されるはずです(プレミアムシアターの枠で1月8日の予定を確認済み←変更の可能性もありますので、ご自身で確認されたし)。

※1/1追記。
グスターボ・ドゥダメルというマエストロは、良くも悪くも伝統の外からの才能なのでこの舞台はどうなのかな?と思う気持ちがあったのですけれど、見事にこなしてみせた、というのが今日のところの正当な評価かと存じます。ただ、その穏当さが果たして彼を起用した意味だったかどうかは正直なところ迷います(本文中で書いた世代のすっ飛ばしに見合う物があったかどうか、という意味であって、演奏のできも含めてよくこなしたと認識しています)。

でもきっと、多くの方が見て聴いて、という目的は達せられるでしょうから、それでいいのかもしれません。そして来年はリッカルド・ムーティが登場するとのこと。妥当ですね、とのみ。

2016年12月30日金曜日

1月1日に「奇跡のピアニスト 辻井伸行 世界遺産で弾く日豪友好の調べ」/1月2日「辻井伸行×ニューヨーク ~解き放たれた天使の翼~」放送

こんにちは。千葉です。

年末年始はクラシックのテレビ番組が実に多いのです。本当に多いのです。心を入れ替えるタイミングを間違えたかもしれません(もうか!もうなのか!)。

冗談はさておいて、元旦放送のこちらの番組をご紹介。

●奇跡のピアニスト 辻井伸行 世界遺産で弾く日豪友好の調べ

これも毎年恒例ですね、BS朝日の辻井伸行スペシャル番組。ちなみに今年の元旦に放送されたものは大晦日に再放送されますので、見逃した方はそちらもご覧あれ。

アシュケナージ指揮するシドニー交響楽団との演奏会の前後にはこうした催しもあったとのこと(番組内でも触れそうな感じです)。



そしてさらにBSフジでも継続的に放送されているシリーズが放送されます。

●辻井伸行×ニューヨーク ~解き放たれた天使の翼~

こちらは10月に行われたニューヨークでのコンサートを軸に描かれる番組ですね(地上波放送済みの番組の完全版)。1月2日の16時30分より放送です。

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私が熱心なピアノ音楽のファンではない所為もあって、残念ながら彼の演奏も実演で聴いたことがない。ソロ公演よりは協奏曲公演なら、と思わなくもないのですが(ヴァシリー・ペトレンコとの共演、テレビで見て感心しましたし)、何分チケットが売れてしまうものですからね…と思って2017年のロンドン・フィルハーモニー管弦楽団との公演情報を見て、またこれも…と思うわけですわ、あはははは。ユロフスキ、ぜひ聴きたい指揮者のひとりなのですけれど。ちなみにこんな雰囲気の人。




視点は人それぞれなれど、これは2017年の注目公演のひとつとなりましょう。公演は10月なのでまだまだ先ではございますが、チケットは3月に発売されます。発売前のリマインドまではしませんので(プレイガイドがしますからね、そういうのは)、各々ぬかりなく。

なお、番組が三つもあるし、ウィーンのニューイヤー・コンサートと被るしで視聴については不確定です。場合によってはこれにて更新終了となりますこと、ご容赦のほど。では。



12月31日に「東急ジルベスターコンサート2016-2017」放送

こんにちは。千葉です。

本当に多いんです、クラシックの番組。TVで、基本全国で見られるものに絞ってなんとか網羅したいのだけれど、拾いきれてなかったらごめんなさい。

●東急ジルベスターコンサート2016-2017

恒例ですね(もう何回書いたことか)。Bunkamuraオーチャードホールで年越しのイヴェントとして開催されるコンサート、少なかろうとは思いますが当日券も出るそうですよ。
放送は基本的にコンサートの後半部分の、新年へのカウントダウンを中心としたものですから、もしコンサート全体を楽しみたいと思われる方は渋谷へGO!です。

指揮は、シルヴィ・ギエムのラストステージとなった昨年末の公演を完璧なタイミングでコントロールした大友直人、ソリストはキャサリン・ジェンキンス(メゾ・ソプラノ)、錦織健(テノール)、郷古廉(ヴァイオリン)が登場。そしていつも通り東京フィルハーモニー交響楽団と東京オペラシンガーズも出演、カウントダウン曲はボロディンの「ダッタン人の踊り」です。うん、伸ばす方は大丈夫ですね(管楽器の心配をしてあげようよ自分)。

司会は小倉智昭&狩野恵里(テレビ東京アナウンサー)のご両名とのことで、ここでは普通なら「ああ小倉アナはクラシック好きですよね」と食いつくべきでしょうけれど、千葉としては「狩野アナ、部長とのご結婚おめでとうございます」の方を優先させていただきます。あーあー、サーキット行きたいなー!二輪でも四輪でも、カテゴリーとかなんでもいいからさー!(ただの本音)

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今シーズンは数多くの公演を取材させていただいて、来シーズンについても紹介記事をすでに書かせていただいている東京フィルハーモニー交響楽団様は、このコンサートの翌々日(実際のところ、ジルベスターコンサートは日付をまたぐから、翌日ですねコンサート)からはニューイヤー・コンサートで同じBunkamuraオーチャードホールに登場されます。(さらに別記事を予定しているNHKニューイヤーオペラにも…)なんとも、頭の下がる思いであります。私からはただ、公演の成功を心よりお祈り申し上げさせていただきます。



12月31日に「クラシック・ハイライト2016」放送

こんにちは。千葉です。

後いくつあるのかな…(だんだん疲れてまいりました←正直)

●クラシック・ハイライト2016

今年は自分にとって大きな区切りとなる訃報が二つも届いてしまって、それだけでこの一年の振り返りは終わりにしたいくらいです。いえ、演奏会などの振り返りは別途したいんですけどね。番組は見てみないとわからないので、ここではその話をします。

まずは1月に届いた、ピエール・ブーレーズの訃報。
その昔、吹奏楽で知ったドビュッシー作品をオーケストラの演奏で聴いたときから長いこと彼の実演が聴きたいと思っていて、その願いがかなったのは1995年のブーレーズ・フェスティバル、先輩が浮かせてしまったチケットを買い取って初サントリーホールに行ったときでしたよ。もう20年以上も前のことかと思うと気が遠くなります(はじめて聴いたニューフィルハーモニア管とのレコードはそれよりずっと前)。年寄りだぜ自分。
バーンスタインに深甚な影響を受けて、その後ブーレーズの歴史的、理論的アプローチを知ってこれまた大きく影響されて、著作も買い求めて読んでいましたよ、当時貧乏な吹奏楽大学生だった私。貧乏は今も変わらないけど。

その後2002年、2003年の来日は縁あって聴くことができました。2002年のロンドン響との数々の演奏は、ブーレーズの円熟と体力と、オーケストラの技量と指揮者への信頼(あと自分の理解と耳)が調和して、最高に楽しめたことを今も鮮明に思い出せます。
ただ、録音を追うことからはその後、少し遠ざかった部分があります。どこかでもう来日公演はないだろうな、とも感じていました。もちろん、TVなどで放送があれば喜んで観たし、気になる作品がリリースされれば買ってもいましたけれど(ヤナーチェクの「死者の家から」の映像はちょっと予想しない選択でしたね)。
報道がなくても、どこかで彼は引退が近いのかな、とも感じ始めていました。もう聴く機会はないかもしれないけれど、長生きしてくだされば、そんな風に感じていました。だから、彼の訃報は衝撃ではあったけれど、どこかで覚悟していたようにも思います。




そして3月に届いた、ニコラウス・アーノンクールの訃報。
私は誰かについてまともに学んだことがなかったので、教えたがりな世界的音楽家の皆さんには本当に助けていただきました。もう冗談も皮肉もなし、本当に助けられました。バーンスタイン、ブーレーズ、そしてアーノンクールの三人には本当に頭が上がらない思いです、直接教わったどころか、言葉をかわしたことがあるわけでもないのに。

彼の実演を聴く機会はもう晩年に近い2006年にようやく聴くことができただけです。それでも、彼の著作「音楽は対話である」(ソフトカバーのやつ)「古楽とは何か -言語としての音楽」は擦り切れるくらい持ち歩いて読み込みました。あの本を手に入れよう、読み込もうと何故決めたのかはもう曖昧な記憶の中ですが、あの本を読み込んだ時期がなければ今の私はいない。いや、もっとまともな人生もありえたかもしれないけど(言うな)、音楽をこういう風に楽しめるようになったのは先ほど名前を挙げた三人のおかげです。

彼の場合は、実演に触れられた時点でもう後振りに近いくらいのものだったから、指揮法でどうこうといった影響はもうありませんでした(もうアマチュア演奏者でもありませんでしたし)。ですが、書籍などと併せて彼の雄弁術そのものに認識を改められて、おかげさまでちゃんと聴くことができる音楽の時代が数百年ほど広がったことを、助けられたと言わずしてなんといたしましょうよ。




バーンスタインにコミュニケーションとしての音楽を教わって、ブーレーズに新しい音楽を、アーノンクールに古い音楽を教わって。彼らがその知見を言語化してくれたことによって得られたものは本当にたくさんあります。それなしに物書きさんなんてできやしませんですよほんと。
その恩をもらいっぱなしにしていていい歳でもない、物理的限界までは非力なりにできることをしてみるしかない。そう割り切るしかない時期が来てしまった、そう強く感じさせられる一年でした。細々と書いているものに何か意味があるのかとか、もう年だから考えていても仕方ないので、需要があるうちは生きていける範囲で書きます。

という自分の締めくくりで番組紹介とか酷い詐欺行為で申し訳ない限りではございますが(笑)、この記事はこれにておしまい。感想の更新はありません故ご容赦のほど。ごきげんよう。




※演奏の方は皆さまの思いでの一枚で偲んでいただければと存じますが、この二冊はできたら常識になっていてほしいです(誰の常識なのかと問うツッコミの声)

12月31日に「N響”第9”演奏会」放送

こんにちは。千葉です。

恒例の番組が本当に多い年末年始です。これに対応できればきっと日常的な更新は容易なはずだ!きっとそうだ!!(言い聞かせ)


指揮はヘルベルト・ブロムシュテット、独唱はシモーナ・シャトゥロヴァ(ソプラノ)、エリーザベト・クールマン(アルト)、ホエル・プリエト(テノール)、パク・ジョンミン(バリトン)、合唱に東京オペラシンガーズを配して管弦楽はもちろんNHK交響楽団というメンバーによる、12月21日のNHKホールでの公演、5回行われた今年の第九から初回の公演ですね。放送は12月31日の20:00より。

その昔「友人に少し似ている(主に髪型とメガネが←おい)」という理由でドレスデン・シュターツカペレ、サンフランシスコ交響楽団のレコーディングを聴いて、NDR北ドイツ放送交響楽団(現在のNDRエルプフィルハーモニー管弦楽団)、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団との来日公演で感心して(ゲヴァントハウス管の現代化は、シャイー着任の前になされていたと思います。あのオケではレコーディングが少なくて、後から検証するのは難しくなるでしょうけど…)、と長年聴いてきたマエストロがこうも成熟されて(しかも音楽はより若く、現在の知見をも見事に取り込んだもの←まだ第九は聴いていませんが、これまでのN響とのベートーヴェンからそうなっていないわけがない)、世界が認める巨匠となろうとは。30年前ころからの録音の印象が「うむ、美しくて妥当だ」という部分ではまったく変わらないのに、容姿だって肌をじっくり見なければ(あと眉毛を見なければ)そう変わっていないのに、マエストロはかくも大きい存在となられましてございます(つい敬語)。

SNSで拝見する限りでは毎日絶賛ばかりでしたから、さぞ!と期待して待っていいのでしょう。録画してみて、感想も書こうと思います。(未完)

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なお、別の団体のものをまとめて紹介することには少々気後れもございますが、これも優れた演奏でしたので第九つながりでご紹介。


放送をTVのスピーカーから聴いただけなので多くは申し上げ様もないのですが、充実した演奏だったように感じられました。個人的に感心したのはスケルツォ、そこに十分なユーモアがあったのが気に入りました。マルクス・シュテンツのマーラー全集、ちょっと聴いてみようかなあ…と思ったくらいにはいい演奏に思えました。興味のある方は配信でぜひ。

なお、読響シンフォニックライブはBS日テレでも放送されていますので、全国各地でもご覧いただけますね。年内最後は…これまた大晦日でした、朝の7時から放送です。五嶋みどり登場回です。

では今度こそおしまい。ごきげんよう。

2016年12月29日木曜日

12月30日に「ベルリン・フィル ドキュメント&第九演奏会」放送

こんにちは。千葉です。

これから新年に向けて心を入れ替えて(甘い)、放送予定とその感想をブログのコンテンツとして一つの記事に書き残すことにします。

●ベルリン・フィル ドキュメント&第九演奏会

12月30日の19時からBSフジにて、ドキュメンタリー「Living with BEETHOVEN ~ベートーヴェンと生きる」と、ベルリンでのベートーヴェン交響曲全曲演奏会から第九番が放送されます。
…放送局からてっきり、今年の来日公演を取り上げるものかと思っていましたが、配信やレコーディングでも聴かれるベルリンでの演奏でした。ともあれ、聴けること自体がありがたいのであります。放送によって広く聴かれ、見られることをそれなりに長い間ラトルのファンをしております私も喜ばしく思い次第でございます。にしても、ですよ。さらっと「巨匠ラトル」って書かれる時代になったんですなあ…(ストラヴィンスキーばっかり再販されていたあの頃を思い出しつつ)

それにしても、この馴染みっぷりはなんでしょうかベルリン・フィル様。もう日本で定期やっちゃえよ、本拠地をミューザ川崎シンフォニーホールにしちゃえよ(目が本気)。
ああ、来年の来日公演聴けないかなあ聴きたいなあ…(超望遠)そうだ初詣でお祈りしよう(行かないくせに言ってみた)。



年末っぽい話をしたところでひとまずはおしまい。後日、放送もしくは録画を視聴して感想を追加してこの記事は更新終了といたします。ではまた。(未完)

読みました:辻田真佐憲「ふしぎな君が代」

こんにちは。千葉です。

今年はあまり本を読めなかったし、映画も見られなかった。「この世界の片隅に」でさえまだ見られていないし(まさか出身地での公開より遅くなっても見られぬとは)、意外なほどの好評を博している「ローグ・ワン」がいつ見られるかもわからないと来た。哀しい、貧乏が憎い。

本気の呪詛はさておいて、読み終わった本の話。



意欲的な本を何冊も著されているお若い方(ジジ臭い物言い)という印象が日に日に強まる辻田真佐憲氏の、できたら最近作を読みたかったのだけれどまずはこちらから。


自分は出身が蝦夷の地だから(というのは半分冗談だけれど)、大和朝廷の歴史や伝統を声高に言われてもピンとこない。自分のものとは思えないのでそれを誇れ大切にしろ、と言われても困る、っていうか明治以降で大きく国は変わってるけどどこを指してどこまでのスパンで語られる伝統なの?

…とか、気になりませんかそうですか。でも千葉は気になりましたし、今も気になる。特にも、本書が取り上げる「君が代」の話です。ある時期までは別に法で決まっていたわけでもないし、音楽の教科書の最終ページに載ってはいても授業で歌ったこともない。吹奏楽で吹くようになってようやくまともに認識した程度で、それでも”得賞歌とポジション的に変わらない”ようなぼんやりとしたものでしたよ。
その後教育テレビのエンディングテーマ曲だったことを知り、それでもまだピンとこない。もしかするとロサンゼルス・オリンピックで認識したんじゃないかなあ、あのときはソヴィエト、東欧勢がいなくて体操でメダルラッシュだったし(音楽的めばえのひとつに、あの大会の開会式があるような気が、ジョン・ウィリアムズ音楽の映画を見ているとときどきします。…いつも気になるんですけど、ホルストやワーグナーよりもヒンデミットっぽい部分が多いと思いませんかジョン・ウィリアムズ音楽とくに「E.T.」とか←話逸れすぎ)。

その後長じていく中で、先の戦争の経緯もあって国旗国歌にはいろいろな意見があることを知る、そして最初に書いたような違和感を感じる自分としてはなんとも、法整備と言われてもなんともなって思っているうちに新世紀を前に法が制定されて、いろいろありつつ今に至る、と。最近ですね、なんとか会議の初期の大成果があれだったと知ったのは。物事には歴史があるし、出来事の裏には企図した者がいる。ふむふむ。そうそう、「振り返れば奴がいる」が三谷幸喜の脚本だと知ったのはもっと最近ですね(それは関係ない)。

で、本書を読んでいろいろと明確になりました。やっぱりあれなんですよ、政治によって強調される「伝統」って、たいがいが明治までしか遡れない。いや、「遡らない」、でしょうかね。明治の時点で作られた国家観がそのまま「伝統」にすり替えられている、と言い換えてもいい。しかしそれは破綻に終わっているのだから、無条件に肯定するのはどうなのか、っていうか明るい面の話だけじゃなくて問題のある面も語ろうぜ廃仏毀釈とかさ、など言いたくなる気持ちはあるけれど、そのためには事実関係を整理しないとね。

と、考える千葉にはこういう本が本当にありがたい。詞はかなり以前まで遡れる「君が代」だけれど、かなりふわっとした成り行きで明治期に林廣守の音楽になって、戦争の時期に幾つかの作品とともにアレヤコレヤと使われて、結果戦後は忌避されてきた、でもバブル崩壊のころから国旗国歌法の制定を求める人達が活躍しはじめてどうのこうの。ちゃんと書けよ!と気になる方には「本を読んでね!」とお返ししましょう(笑)。明治の明るい側面のひとつとしての「我等如何にして近代國家と為りしか」の一面がわかる本ともいえましょう、試行錯誤の中で体裁を整えて国らしくなったプロセスは楽しめる、かな。

個人的には、最近日本人作曲家の再評価の流れが大戦時の作品にまで拡がっていく雰囲気に懸念を覚えています。明治の国家観は最終的に敗戦という形で否定されて終わっているのに、そこに無前提的に戻ろうという発想がどうにも理解できない。文字通り正確に「同じ轍を踏む」つもりだと言っているようなものですからね、これ。具体的な作曲家や作品名は挙げませんけれど、無邪気に「名曲だ」「感動的」とか言って受容してる場合じゃないです、ほんと。もしその作品に関わる可能性が出てきた時に、どうしたものかは今から考えておかないと…

最終的に自分の話にオチてしまうようではイカンな、と少し反省しつつもこの本の話はこれでおしまい、近いうちに「たのしいプロパガンダ」「大本営発表」と読んでおこうと思いました、辻田真佐憲氏の本。ということで、ごきげんよう。

2016年12月28日水曜日

読書メモ:「孤独な祝祭 佐々木忠次」

こんにちは。千葉です。

これは随時更新の上、最終的には別途評を書く予定の読書メモです。いろいろ途中経過感があると思いますので、その点お断りさせていただきます。



本書は日本舞台芸術振興会(略称NBS)及び東京バレエ団の創設者として、長年にわたり活躍された佐々木忠次氏の評伝です。

●序章
印象的な締め、この章の終わりまで読めば誰でも続きを読むだろう。千葉の世代であれば知った時点で功成し遂げた傑物、大立者として認識していただろう佐々木忠次氏の、生涯でも最高の舞台と称されるだろう東京バレエ団によるパリ・オペラ座公演のエピソードは、その文章で彼を知ってきた一聴衆として興味を大いに引くものだ。

●第一章
かつて仕事で伺ったこともある目黒の有名なあの建物をめぐるエピソードに得心したり笑わされたり。そういえば曽田正人先生の「昴」にも登場してますね、「殿堂」。
ここで語られる2003年のガラの時点ではまだ自分、東京での主催公演に伺えていないですね(地方公演でベジャール・バレエ団を見ていたから、それがファーストコンタクトということになるのだろうか)。NBSニュースに掲載されていたコラムには触れていたかな。

●第二章
生い立ちの章、就職するまで。
ここまで読んで、5月のフォルクスオーパーの記者会見で語られた「最初に彼が招聘しようとした団体だった」という、本書にも登場するたびたび高橋典夫氏のコメントが強く思い出される。しみじみ。

●第三章
佐々木氏の舞台監督時代、それは1955年から1961年まで。この時期はちょうど「三人の会」(1954-1962)の活躍に重なるものだから、結果的にクラシック音楽から知っている「その時代」への知識を裏打ちしてくれる、興味深い章ともなっている。そこに伝説的なイタリア歌劇団公演のエピソードも加わるのだから、ここだけでもクラシック音楽好きは読むべき(偉そう)。
イタリア歌劇団公演を契機に結成された「ザ・スタッフ・クラブ」のメンバーが今の目で見るととても豪華で、その若い才能の集まりが眩しく思える千葉である。おじさんだからなあもう…
この章では、東京バレエ学校をめぐる出来事も見逃せない。ここから読み取れる当時のソヴィエトの文化政策は興味深いし※、この学校の倒産から生まれるのが現在に至る東京バレエ団なので。
※ちなみに最初のレニングラード・フィル来日は1958年、同年からアルヴィド・ヤンソンスは東京交響楽団を指揮している。

●第四章
東京オリンピックを目前に控えた時期に誕生した東京バレエ団の最初期の話、1964-70年ころまで。ここまでの団体に育つと思っていただろうか、とも思える「放浪のバレエ団」の最初期は微笑ましくも相当の苦労が想像される。軌道に乗っていく過程にありながら国外での評価を確実に得ていったことは、今ならブランディングとか安い言葉に還元されてしまいかねないけれど愚直に感じられるほどに率直に真髄を求めた結果、本物志向(これも安い言葉だが)ゆえなるか。ベジャールとの関係の始まり、ソ連など当時の国情を想わせる交渉の話などなど、実に興味深い。
クラシックの側からは、この国の招聘公演を語る上で欠かせない(はず)の民主音楽協会との関係が興味深いのでは。

●第五章
もしかすると今なお、日本でより海外で評価されているのでは?と感じなくもない東京バレエ団の雄飛、成長、そして変化と、三年に一度の大イヴェントとして開催が続いている世界バレエフェスティバル(前回は2015年の第14回)およびベジャールとの本格的な出会いが重ね合わせられて語られる章。時期でいうと1973-1980年。
クラシックの人としては、やはりカルロス・クライバーの招聘(バイエルン国立歌劇場でしょおじいちゃん)に食いつかざるをえない。いくつかのムック本で読んだ、悪い意味で伝説的な記者会見のやり取り(Q「オペラ以外にも指揮するんですか?」A「たまにね」というやつ)がここでも触れられていますよ(実は今でも記者会見で質疑になるとこれを思い出すし、インタヴューとかするときにこういうことを言わないように、と割と固くなる方です)。

佐々木氏はどちらかといえば反時代的な方だと思うのだけれど、それでもその時代には否応なく拘束されざるをえないわけで。時代とは少し離れたところで美を追求した佐々木氏の生涯をたどる本書を読んでいても、否応なく冷戦のあの時代を想起させられることになる。この章はオイルショックからモスクワ・オリンピック西側ボイコットまで、というのも少し意識して再読してみてもいいかもしれない。
で、ですが。冷戦の終わり頃にようやく思想的に物心ついたような千葉の場合、冷戦は前景化されてはいたけれど現実のものとして学んだこと以上に、いくつかのマンガで知ったことが多いことに否応なく気付かされる章でもありました。たとえばですけど、ボリショイの話をされれば嫌でも山岸凉子先生の「アラベスク」を想起してしまいますって、第五章は亡命のエピソードで終わるのだからなおさら。ちなみに「アラベスク」の掲載時期は1971-1975年というのだから、作家の想像力というのも佐々木氏の実行力に負けず凄まじいものだなと感じ入りましたよ。

●第六章
念願かなってミラノ・スカラ座の招聘に成功、そして東京バレエ団は念願かなってパリ・オペラ座の舞台で大喝采を浴びる。これが序章で描かれた場面に続くわけですね。
カルロス・クライバーではなくプラシド・ドミンゴが理由で「オテロ」キャンセルの危機だったとか、なかなか外からではわからないものですねえ(笑)。この時の録音はいわゆる海賊版がございましてですね(以下自重)。個人的に意外に感じたのはクラウディオ・アバドについての言及があまりなかったことですね。ウィーン国立歌劇場、そしてミラノ・スカラ座と、80年代の引越し公演の中でもハイライトとなる公演に参加していたことを思えば、という個人的感触です。そしてスカラ座の招聘で民音との協業が終わり、NBSの時代がはじまる、と。ふむふむ。
そしてもう一つの焦点である東京バレエ団の、現在に至る活躍のなかで何があったのか、何を成し遂げてきたのか、その幾つもの頂点が描かれます。この続きは現在NBSを支える皆さまが作っていかれるのだなあ、としみじみ思わされました。

●第七章
この時期になって、ようやく同時代の人として認識するようになった私である。たしか図書館で見かけた「オペラ・チケットの値段」あたりが最初の出会いだと思う。この時点でも、その後に東京でチケットを売る仕事についてコンサートに行く機会が増えても、佐々木氏の印象は変わらずこの章のタイトル通り「怒りの人」だった。
本書を読み進めてこの章にたどり着くと、その印象がなんとも、知らぬこととは言えすべきではない相手に対して子供じみた反応を、迂闊にもしてしまったようなものだったことに否応なく気付かされて、言葉に詰まる。近年の文化行政は、おそらく大阪がその先鞭をつけた方向性で動いている。佐々木氏が健在であれば、などと口真似をするのではなく、自分自身の見解としてその動き、流れに対して意思表示をすることでしか、その無礼は雪げまい。

今年亡くなられた偉大な人々の列に並べ記憶されるべき、大きい存在だったのだと本書を読めば誰でも理解することだろう。(更新終了)

2016年12月9日金曜日

書きました:歌唱,ドラマ,ダンス,映像・・・川端康成の小説を多面的に再構築———オペラ《眠れる美女》

こんにちは。千葉です。

この週末は先にご案内した「コジ・ファン・トゥッテ」の他にも、新国立劇場の「セビリアの理髪師」、NHK交響楽団の「カルメン」など多くの注目オペラ公演があります。それらに並んで上演されるこちらの舞台はひときわ新しく、独特な公演なのです。

●歌唱,ドラマ,ダンス,映像・・・川端康成の小説を多面的に再構築———オペラ《眠れる美女》

なにぶん、2009年の作品ですからね、こちらは。年代的に新しいのは当たり前としても、作品自体が「何をもってオペラとするのか」という問いをも内包した挑発的な作品ですから、もしかするとこれをオペラだと認識されない方も多いかもしれません。どういう演目であるかは記事中で紹介したので繰返しませんが(ぜひリンク先の記事でご覧ください)、川端の小説に拠りながらまったく違う感懐を抱かせる、刺激的な舞台となることは保証します。

もしかすると、「中劇場」くらいの会場でロングランができて、何回か違う部分に着目しながら楽しめればもっと…という演目かもしれないのですけれど、今回は大ホールで10日(土)、11日(日)の二公演のみです。こうした試みを含み持つ舞台がこれからも上演されますように。

公演について詳しくはこちらでどうぞ>オペラ「眠れる美女」特設サイト

以上簡単ですが紹介でした。ではまた。

書きました:たった2回のみ上演される、充実のモーツァルト———演奏会形式で体感する《コジ・ファン・トゥッテ》

こんにちは。千葉です。

最近、突然忙しくなってその後出番そのものが消えるパターンではあるけれど仕事があります。ありがたいありがたい。ぜひお声掛けください、何でもとは言わないけど書きます(都合のいい営業)。
人目に触れる記事は少しでも早くお出ししたいし、記事が出たら自分のブログで軽めのB面も書いておきたい。その手が回らないのはなんとも残念なことですが、この週末に向けて私が推す公演の記事が二つばかり出ています。

その一は、ジョナサン・ノット監督と東京交響楽団の、第三シーズンを締めくくる公演のリハーサル紹介です。


取材は12月6日、記事にも書きましたとおりリハーサルは第一幕のみでした。ですが、この第一幕を聴いて公演の成功を確信しないなら、私は会場で寝ていたんでしょうきっと。厭らしい言い回しを省いてしまえば「これはいい上演になるわ」という確信を得て帰ってきたよ、という記事です。
小編成のオーケストラは先日の「ナクソス島のアリアドネ」と同程度ながら、東響得意の作品の成立年代、作曲された地域に合わせて楽器やスタイルを変える方法で20世紀の新古典主義の先駆けから古楽オーケストラに近いサウンドをも使いこなす古典派オーケストラに変貌していました。もちろん、それはスダーンの時代から培われた団内の共通理解あっての変貌です、無理をしているようなところは一切ない。ホールの方も「ここまでの小編成はモーツァルト・マチネでもしていない」と驚かれるほどのサイズながら、オーケストラの伸びやかな音はホールを柔らかく満たしていくんですよ。素晴らしいのなんの。

そして、ノット監督の治世が三シーズン目も終わろうとしている今、さらに言うならば欧州ツアーも成功させた今のコメントとしては、先日のイザベル・ファウストを迎えたベートーヴェンを思い出しておくべきかもしれません。「強い音でヴィブラートをかけて弾きまくるタイプのソリストではない彼女と、互いに聴きあい立体的なサウンドを創り上げ、それをツアーで繰り返し演奏する」貴重な経験を経て、今の東響にはこんなモーツァルトが可能になった、と申し上げればファウストとの共演をご記憶の皆さまはサウンドをイメージできるのでは?
夏のブルックナーが一つの大きなステップとなった公演であることは、これからリリースされるCDで多くの皆さまに理解されることと思いますが、この「コジ・ファン・トゥッテ」もまたひとつの区切りを感じさせる大きな公演となる。リハーサルを拝見し、そう感じていますので、今まだ金曜と日曜に時間を作れる方には「是非!」と申し上げます。これを聴くことができるスケジュールなのにスルーしちゃうだなんて、あまりにももったいないことです。
※「コジ」の会場で先行発売されます。

千葉は東響びいきだからそう言うのだろう?と疑われる方もいらっしゃるかもしれませんけれど、どうせなら聴いてから疑ってください、絶対に損はさせませんから(ノット&東響、そしてキャストと合唱の皆さんが、ですけど)。古典派でこういう演奏ができて、もともとモダンな作品に強い、そして監督はベートーヴェン以降のロマン派が大好きだから新シーズンにはそこに注力し、その上オペラでこれだけの演奏ができてしまったらこの先どうするの?なんて余計なお世話もしたくなりますが、そこは団の皆さまが口を揃えて「もっとノット監督の要求を消化していい演奏をしたい!」と思っている東響ですから、もっといい演奏を重ねて成長されることでしょう。そしてそれは私も含めた聴き手にとって、この上なく喜ばしいことです。嬉しいなあ(しみじみ)。

そしてここまでオケの話をメインに書きましたが、今回のキャストにも触れておきましょう。
記事でも書いたことですが、今回の「演奏会形式」がセミステージくらいの演出付きになったのは、ドン・アルフォンソ役のトーマス・アレンのリードで自然とそういう流れになったのだとか。ノット監督がハンマーフリューゲルに向かっているレチタティーヴォの間、またちょっとしたリハーサルの合間に歌手同士がディスカッションをしながら立ち位置や所作がどんどん決まっていくステージ上は、その進行だけでも楽しくて仕方がない、その上作品が「コジ・ファン・トゥッテ」ですからね(私はこの作品、ラトルの録音を聴いて以来ずーっと大好きです)。そして、個人的な思い入れを申し上げますなら私が最初に買った映像のドン・ジョヴァンニだったトーマス・アレン(スカラ座のLD)がとてもいい年のとり方をして、この意地悪なおじさん役を楽しんでいるさまを拝見できたのがもう、嬉しくて。公演に期待です。キャストが二人変更されたほかの面々も大いにこの舞台に積極的に参加されていて、舞台のできあがりを心配する必要はないのではないかと。記事にも少し書いたエピソードではありますが、フィオルディリージとして舞台袖から歌いながらカミンスカイテが登場した瞬間の驚きと喜び、どう書いたら皆さまに伝わるものでしょうか…即席の”カンパニー”、とてもいい感じなんです。

彼女が到着して、歌いながら舞台に登場した直後の写真、幸いにして撮影していました!いえい!(調子に乗らない)


あまり長く書きすぎてもいけませんね、言いたいことをまとめてしまうと「絶対いいものになるから、金曜の川崎か、日曜の池袋、都合のつく方に行こうよ」ということになります。自分の耳でぜひ、ノット&東響の現在のモーツァルトを聴いてみてほしいんです。これが新たなスタンダードになれたら、ちょっとこの先は凄いことになりますよ。

ということで記事の紹介、のような全力推し記事は以上。ではまた、ごきげんよう。

2016年12月4日日曜日

書きました:展望:東京フィル2017-18シーズン定期演奏会

こんにちは。千葉です。

まずとてもどうでもいい話を。
これまで一人称に「千葉は」といった表現を使用してきましたが、今後は控える予定です。というのも、名字を一人称にするのはそもそもは森博嗣先生の犀川創平くん(もうかなり以前から年下だ…)の影響だったんですけど。この前「名探偵ポワロ」シリーズのドラマを見ていてポワロの一人称がちょっとしつこかったもので(笑)。「某は」とか「俺は」「私は」がしばらくは交じることでしょう、ご容赦のほど。Merci.(おい)

それはさておいて、某寄稿致した次第にて申し伝えたく候(もう駄目だよこの人)。

●展望:東京フィル2017-18シーズン定期演奏会

先日「ザルツブルク・イースター音楽祭 in 東京」の記者会見でも寄稿させていただきましたが、フリーのクラシック音楽情報誌「ぶらあぼ」はその昔、仙台からこっちに出てきてコンサート通いする頃からありがたく読んでいた媒体です。そのWeb版の別館として東京フィルハーモニー交響楽団のサイトが作られるにあたり、まずは定期演奏会の全体を俯瞰した記事を寄稿しています。

つい先日の2日には、韓国の大邱と釜山での公演を前にしたアンドレア・バッティストーニにインタヴューもしています(記事は現在鋭意準備中です)。大邱市での公演は大成功だった模様>リンク先にてその大喝采がご覧いただけます。韓国の皆さんと東京フィルと言えば、このオーケストラを「日本の家族」と呼ぶチョン・ミョンフン名誉音楽監督の公演で多くのお客さまを見かけていましたけれど、もしかしてこれからバッティストーニの回でもたくさんいらっしゃるかも。チョン・ミョンフンとアンドレア・バッティストーニ、個性は違えどふたりの東京フィルの実力を最も引き出すマエストロに魅せられたら定期会員になっちゃったほうがいいでしょうしね(笑)。その二人に加えてプレトニョフの凝ったプログラムによるコンサート、日本の実力派と若手も聴けるわけなので、もしこの文章が韓国の東京フィルファンの目に止まりましたらぜひご検討くださいませ。

そんなわけで「ぶらあぼANNEX 東京フィルハーモニー交響楽団」、私ともどもぜひご贔屓にお願い奉る次第にございます。何卒よろしゅう。

以上ご案内でした。せっかくですから、先日の取材の際に私めが撮影した写真をば公開いたしましょう。バッティ、絵になりました。ではまた。




2016年11月23日水曜日

書きました:《ナクソス島のアリアドネ》のゲネプロが行われました———”二本の導きの糸”「芸術家が抱える問題」「変容」はどう視覚化されるのか?

こんにちは。千葉です。


寄稿した記事の紹介です、そしてこの舞台はオススメです(肩が抜けるくらいの速球)。


今年、作曲されて100年となる「ナクソス島のアリアドネ」第二版(最初のヴァージョンは演劇を組み込んだものだけれど、初演から成功しておらず、現在でも録音も数少ない)が、先日のウィーン国立歌劇場来日公演に続いて東京二期会により上演されます。その記者会見も先日紹介しましたが、開幕を前に報道、関係者に公開されたゲネプロを拝見し、そのレポートを書きました次第。

ウィーンの舞台が最高に磨き上げられた繊細なフェイク(ラヴェルの作品がそういう性格を持つのと同様に)だったとしたら、ライプツィヒで創り上げられたこの舞台はより生々しい劇として企図されたもののように感じます。演出のカロリーネ・グルーバー、指揮のシモーネ・ヤングと、プロダクションの軸となるメンバーがほぼ一ヶ月の稽古をつけてきた舞台はスキがなく仕上がっています。見る方も聴く方も情報量が多くて、気を抜いてしまうのはもったいない上質の舞台です。

この日、歌はさすがにそれぞれに調整込みで確認をされていただろうと思うのですが、東響の四十名弱のメンバーを率いるマエストラの迫力を見るに、もしかすると本公演に劣らない歌唱だったかも、です。シモーネ・ヤング、先日の客演指揮者としてのコンサートとはかなり力の入り方が違った模様で、千葉としても「こっちが本領か」と感じて気が早くも他の演目も聴いてみたくなりました。

と、先の妄想はさておいて、本日開幕します、東京二期会の「ナクソス島のアリアドネ」。本日のみ早めのソワレ、あとは全日程マチネ公演ですので日程をご確認くださいませ、お間違いになりませぬよう。(詳しくは東京二期会のサイトでどうぞ

ではひとまずこれにて、ごきげんよう。

2016年11月19日土曜日

書きました:『かわさきジャズ2016』 世界最高のコンサートホールに響きわたるジャズ

こんにちは。千葉です。

珍しく忙しいのです。だからまずは記事そのものの紹介をしておきます。

●『かわさきジャズ2016』 世界最高のコンサートホールに響きわたるジャズ

「かわさきジャズ2016」のうち、記事で言及したのは本日からの三公演、題してスーパー・セッションです。文中でも書いていますが、このホールで聴くジャズはかなり生々しいんです。ぜひ一度お試しを、その機会が三連続であるわけですから、これほどの好機はなかなか訪れませんよ、というご案内です。

なお、本稿を書きつつ聴いていたのはこれ。文中でも触れていますが、まずは聴いてみてくださいよ。




せっかくですから、昨日伺ってきたスーパーセッション初日公演の簡単なレポートをば。

●かわさきジャズ2016 スーパー・セッション 小曽根真 featuring No Name Horses

2016年11月18日(金) 19:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

小曽根真 featuring No Name Horsesは、記事にも書きましたとおり誰をとってもバンマスを張れるレヴェルのメンバーが集まった日本ジャズメンのドリームチーム。MCの中で小曽根さんが「このバンドが動き出すと東京のジャズシーンが止まるという(笑)」と言っていらしたのは半ば冗談で、ある程度は事実でしょう(「シン・ゴジラ」の撮影中は「ドラマ撮れないんですけど」と言われた、なんてエピソードを思い出したりして)。
ちなみにこのバンド、昨日がツアーの最初の公演でもありました、今後の予定は小曽根真さんの公式サイトでご確認あれ。

かつて一関市の高校に通っていた千葉は、某有名ジャズ喫茶のおかげもあって(吹奏楽部のOBなんですよねあのマスター)高橋達也と東京ユニオンやカウント・ベイシー・オーケストラをお買い得価格でライヴで聴けたりもしていたのですが、その後大学時代に筒井康隆の深甚な影響のせいもあってビッグバンドからフリーに移行(演奏したわけじゃないですよもちろん)、本当に久しぶりのビッグバンドのライヴでした。


ちなみに初日のステージ。いつものミューザがこんな姿に!(笑)いちおうお断りをしておきますが、ちゃんとホールの方に確認して「アーティストがいない時間は撮影OKです」とお話をいただいてアップしてます。ある意味チャンスですよ皆さん。

12年目を迎えたこのバンド、すでに五枚のアルバムを出していますのでオリジナル作品中心のセットリストで、途中一回の休憩を挟んでのライヴは終わって21:30頃でしたから、もうさすがにお腹いっぱいです(笑)。ちなみにこの休憩について、小曽根さん曰く「昔ならぶっ続けで演奏したところですが、今は休憩しないと」と笑っておりましたが、あの休憩だけで保つところがですね、最近趣味でラッパを吹く某には理解できもうさん。ソリッドにガツンと吹けて、メロウに歌えてハモれて、ってのはどれだけの練習をしているのかなあ、とか邪念が入ってしまって、テューバの人だったころに「儂には関係ないが音楽は楽しいのう」と素直な聴き手でいられた時代が少し懐かしかったり。今後のトランペット吹きとしての人生は、今回初めてライヴで聴けたエリック・ミヤシロ様に帰依して生きていこうと思います(流石に大げさ、だけどあの精度と表現に圧倒されないのは、同じ楽器の人として無理です)。

※セットリストがかわさきジャズのサイトで公開されました。リンク先でご覧くださいませ。

邪念やら学習モードが邪魔をしたとは申しましたが、ミューザのステージがライティングを施されてスピーカが積まれている、それだけでいつもとは違う心持ちで音楽を楽しめたように思います。土曜日はプラチナ・ジャズ、そして日曜は全体のフィナーレです。このステージが気になった方はぜひ、とオススメしておきますね。

※プラチナ・ジャズ・オーケストラのセットリストが公開されました。「タイガーマスク」から「神のみぞ知るセカイ」(!!!)まで、広い時代の作品を気の利きまくったアレンジで楽しませてくれました。楽しかったあ。

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せっかくなのでサウンドの話も少し。
ホーン・セクションの中でも腕利き揃いの金管チームは、ときどきソロであえてマイクオフして生音を聴かせてくれたのですが、この日のサウンドは基本的にきっちりPAを経由したもの。やたら上手くて完成度の高いパフォーマンスが目の前で、しかも出来上がったサウンドで展開されるのはどこかレコーディングセッションを聴いていたような不思議な感触もありました。
ピアニストがバンマスだから、なんてまとめかたは安易でしょうけれど、個人的にはホーンセクションが箱に合わせて鳴らしたときの音色ももうちょっと聴いてみたかったかも(贅沢な奴め)。
なお、最終日の第二部、ファジル・サイのステージと第三部 山下洋輔&大谷康子&大倉正之助のセッションは完全アコースティックライヴになるとのこと。昨日今日のポピュラーよりのサウンドとの違い、かなり面白いと思いますよ?どうすかこれからでも?(本気)

では本稿はこれにて更新終了、グンナイ…(どうした)


2016年11月18日金曜日

書きました:「ザルツブルク・イースター音楽祭 in JAPAN」開幕

こんにちは。度々千葉です。

ええ、本当に掛け値なしに少し忙しいのです。特異日ですね(としか言いようがない)。ということで本日紹介三本目!

●「ザルツブルク・イースター音楽祭 in JAPAN」開幕

「ぶらあぼ」様に寄稿しました。これも後ほど追記します、まだ終わってないのがあるものですみません…

だけだと申し訳なさすぎますので、千葉が撮影した写真も一枚ご紹介。皆さんいい笑顔でいらっしゃいました。面白い公演が続くことでしょう、行かれる方は楽しんでくださいませ…

書きました:「ザルツブルク・イースター音楽祭 in JAPAN」の記者会見が行われました

こんにちは。千葉です。

17日は千葉には珍しく忙しい日で、今もまだいろいろと残っているという、世に言うハード・デイズ・ナイトです。ワンワン(そういう歌じゃない)。

いろいろあったうちのまずはその一、午前からのお仕事その一。

●「ザルツブルク・イースター音楽祭 in JAPAN」の記者会見が行われました

速報として、いつもよりちょっと柔らかめに書かせていただきました。シューベルトのオクテットが演奏され、来シーズンのザルツブルク・イースター音楽祭のプロモーション映像が公開されたりと楽しめる会見でした。きっといい演奏会、ホールオペラ®になることでしょう、ええ、ええ。

後で何か書き足すかもしれませんけれど、ひとまずはこれにて。ではまた。

2016年11月7日月曜日

シーズン4に向かって、ノット&東響(その二・完)

こんにちは。千葉です。

予定より遅くなりましたが、前回の続きをこちらに。ではどうぞ。

(承前)
ジョナサン・ノットからのプログラム解題に続いて、ノット監督とともに東響の刺激的で魅力的なプログラムを作り上げている辻敏・事務室長からノットの言葉を裏打ちするような示唆が多く与えられたことも興味深い。一例をあげれば、昨年11月に披露された「リゲティのメトロノームのための作品に始まりショスタコーヴィチに終わるプログラム」は彼独自の興味深い演奏会となったが、このプログラムについて興味深い裏話が披露された。あのコンサートで演奏された交響曲第一五番か、もしくは第一〇番とどちらかを今回の欧州ツアーで演奏する候補と考えていたのだ、という。けっきょくは第一〇番がツアー曲目となったのはご存知のとおりだが、その前にまずはコンサートでショスタコーヴィチを演奏しておこう、そんなつもりもあって昨年のプログラミングはなされていたのだという。これはあくまでも一例で、彼らのプログラミングは一つの演奏会で完結するものではなく、ときには数年のスパンで組合せを考えているのだという。
そういった趣向と配慮あるプログラミングは、ノット監督がその着想を熱心に説いてくれた新シーズンの「変奏曲」プログラムについても同様だが、「私たちはいろいろと考えてプログラムを編むけれど、演奏を聴いて何を感じるのも皆さんの自由です、それぞれに楽しんでほしい」とも辻氏は語る。即興性を語るマエストロ、そして聴衆の自由を語る辻氏のコンビは、これからもよく考え抜かれた興味深いプログラムで私たちを楽しませてくれることだろう。

また、シーズンのノット監督以外のプログラムについては豊山覚・企画制作本部長から紹介された。まず、来シーズンは数々の公演で印象的な合唱を聴かせてきた東響コーラスが創設30年を迎えることに言及し、9公演に登場することを紹介し、また来シーズンも数々の日本初演を行うことを紹介した。桂冠指揮者の二人を除くとノット監督と同世代のマエストロが揃った定期演奏会について、また名曲全集や新潟定期演奏会など、各地でそれぞれのプログラミングで興味深い演奏会が行われることにも触れた。

川崎、東京、そして新潟各地で2017/2018シーズンも興味深い演奏会が行われることだろう、とこの日出席した誰もが思ったことだろうけれど、シーズン全体の公演についてここで全てを書ききることは難しい。幸い、現在は東京交響楽団の公式サイトでコンサート情報が掲載されているので、詳しくはリンク先でご確認いただければと思う

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この日、最後に行われた質疑応答で”東京交響楽団という”日本のオーケストラの特色”を問われてジョナサン・ノットはこう語った。

「メンバーのスキルは非常に高いし、どんな演奏をしようと試みてもついてきてくれます。リハーサルで私が奏者の誰かに作品の構造を示せば、他のメンバーもそれを理解して自発的に演奏が変わっていくようになり、アンサンブル意識も高まっています。
課題をあげるなら、すでに一番目の声部はもう十分に大きい声で主張していますから、これからは第二、第三の声部がもっと主張してくれれば、と思います。具体的には中低音域がより充実したサウンドになるように求めていますし、その方向に向かっていると感じています。今すでに発揮されているリズムへの鋭敏なセンス、そして何よりメンバー全員が準備して演奏会に臨んでくれる現在に、さらに”自由”を持ち込めればよりいい音楽が作れるだろう、そう確信しています。」

この日のジョナサン・ノットの言葉からは、ツアーを前にしていたからだろうか、端々に”旅”が意識されていたように感じられた。これから行う欧州ツアー、プログラミングから見える旅、そして一つの作品の中にある旅。それらをひとつずつ、毎回を大切に重ねてきたノット&東響の旅は最初の共演からもう5年となる。この日登壇した諸氏から語られた数々の言葉は、その旅の最初の頂点のひとつとなるだろう欧州ツアーの成功と、来るべきシーズン4の充実を確信させるものだった。あとは”旅”の無事を祈るのみ、である。

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この日、会見冒頭に大野順二・楽団長はノット監督への愛を存分に語り、その上で団としてもっとノット監督の要求に応えられるようになりたい、と現在の好調(に感じられる)数々の演奏会から考えると意外にも思える、向上心の塊と評したくなるような言葉が連続していたことを思い出す。あらかじめ打合せたわけでもないだろうに、マエストロともども東京交響楽団の現在と未来について存分に語ってくれたわけで、図らずも現在のマエストロと楽団の相思相愛ぶりが示された会見となった。シーズン3もいよいよ佳境を迎えるノット&東響の旅は、来シーズンから契約更新の新年度を迎えてこの先10年続く、長い道のりだ。今からでも遅いということはない、ぜひ一人でも多くの音楽ファンに、この旅路を共にしてほしいと思いを強くした会見だった。

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以上で会見のレポートは終わりです。その後のツアーについては、どこかで何か書けるといいのですが。各地でほぼ満員の聴衆に迎えられ(ロッテルダムだけ会場が大きかったせいもあって埋まらなかった、とか)、好表裏にツアーは終了しています。そして先日書きました、名曲全集→定期演奏会→新潟定期演奏会と、帰国後早々に演奏会をこなした東京交響楽団の皆さまは、その中から40名弱が次なる舞台、東京二期会の「ナクソス島のアリアドネ」に出演されるわけです(人数が少ないのは作品そのものが小編成だから、ですよ。詳しくは会見とコンサートのレポートの記事をご覧あれ)。

記事本文に当たる文中でも書きましたが、ノット監督のプログラミングはひとつのコンサートで閉じてしまわない、開かれたものになっているのが一つの特色です。この11月にシモーネ・ヤングを招いた演奏会とオペラを聴く人は、ジョナサン・ノットが12月におなじく演奏会とオペラで登場したとき多くのことを感じ取ることでしょう。なにせチェロ協奏曲を演奏すること、ロマン派の交響曲で終わることまで、鏡合わせのようなプログラムを東京交響楽団はこの二ヶ月の間演奏するのですから!それにシモーネ・ヤングの主な活躍の舞台はオペラですし、ノット監督のキャリアはオペラハウスで始まっているのだから、二人のオペラが面白いものにならないわけがない。ツアーを経た東響を確かめるもよし、一つ一つのコンサートやオペラを存分に楽しむもよし、10年先までを見据えていろいろと思いを巡らすもよし、それこそ自由にお楽しみくださいませ。かく言う千葉が、この二ヶ月の東響に期待し、楽しみにしているのです、きっと誰よりも!(笑)

ということで会見の記事はおしまいです。ではまたごきげんよう。

2016年11月5日土曜日

書きました:女性二人の創造的なチームワーク。指揮のシモーネ・ヤング、演出のカロリーネ・グルーバーらが記者会見———東京二期会『ナクソス島のアリアドネ』

こんにちは。千葉です。

この前の日曜までウィーン国立歌劇場が上演した「ナクソス島のアリアドネ」、今月東京二期会も上演します。その上演に先駆けて、というか今回の舞台を作るキーパーソンふたりの来日に合わせて行われた記者会見のレポートを「オペラエクスプレス」様に寄稿しました。

●女性二人の創造的なチームワーク。指揮のシモーネ・ヤング、演出のカロリーネ・グルーバーらが記者会見———東京二期会『ナクソス島のアリアドネ』

記事にも書きましたが、女性二人が率いるオペラの上演は、はじめいろいろと言われたそうですが、実際の舞台でそのような声は消せたのだとか。千葉はまだグルーバー演出を経験していないので多くは申し上げられませんが、その語りの説得力はさすがのものでしたので是非記事でご覧くださいませ。
そしてシモーネ・ヤングの指揮についてなら、少々経験があります。NHK交響楽団との公演はテレビで見た程度なのでコメントできかねるのですが、ハンブルクの「ラインの黄金」はCDで聴いて感心した記憶があります。そして昨日、東京交響楽団の公演を指揮して情報量多くしかもサポートの丁寧なドヴォルザーク、そしてチャイコフスキーの交響曲第六番ばりの劇的なブラームスを聴かせてくれました。ということで、聴いて参りましたその演奏会の話もしておきましょう。

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◆ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集第122回

2016年11月3日(木・祝) 14:00開演

指揮;シモーネ・ヤング
チェロ:アリサ・ワイラースタイン
管弦楽:東京交響楽団

曲目:

ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調 Op.104
ブラームス:交響曲第四番 ホ短調 Op.98

作曲者晩年の傑作を並べたプログラム、指揮者と独奏者が女性、そしてオーケストラは記念すべき楽旅を終えて帰国最初のコンサート。これだけつかみの多い演奏会を聴かずにおられようか(反語)、というわけで伺ってきました。
いや、指揮者と独奏者がともに女性というケースはこれからは増えるだろうし(実はこのシリーズ、来年2月にもその組合せです。そして上記のとおり、指揮と演出というオペラを創りだす役どころですでに実現しているのだからことさら騒ぐのもどうかと思わなくもない)、お二人共にその実力ですでに評価されていますのでそういう素朴な見方は失礼に当たりましょう、評価は演奏に基づいて行われるべきです。であればこのコンサートで注目すべきはその実力派と、コンサートツアーを終えた東京交響楽団とのコンビネーションでしょう。ノット監督が「集団としてより強く結び付けられる経験」と語ったツアーの後、東京交響楽団はどう変わったのか?ということになります。

先に申し上げてしまいますが、音が、響きが変わったと千葉は感じたんです、ドヴォルザークの冒頭すぐに。アンサンブルがより緊密に、お互いの音を意識しつつツアーの前より主張しあうようになった、のではないかと。この協奏曲はベートーヴェンやブラームスのヴァイオリン協奏曲に負けず劣らず前奏が長く、そこではオーケストラが雄弁に主題を提示しなくてはいけないわけですが、この前奏だけでも先ほど書いたようなオーケストラの意識が伝わった、ように思えたんですね。これまでは緩かったとかそういう話ではなく(東京交響楽団はむしろ、几帳面に感じられることがあるほど整った演奏ができるオーケストラです)、一枚紗がかかっていた絵画がより鮮明に見られるようになった、ような微妙だけれど印象に残る変化。変わったように感じられた響きの意味を、内実をあえて言語化するならこういうことかなと。もちろん、推測の域を超えることはできませんが。
この日のオーケストラの配置はいつもの「ノット編成」、左右にヴァイオリンを配した対向配置で弦は前半12型、後半は16型をシモーネ・ヤングも採用していました。だからツアーとの違いは指揮者、独奏者、曲目のみ。ですからある程度はツアー前後の音を比べようがあると考えますし、この感触に相応の自信もありますが、ノット監督との演奏会ではより明確に変化が確認できるような気がしています。なにせこの日のお二人は東京交響楽団には初登場でしたから、どうしてもその変化より創り出される音楽に意識が向かいますゆえ。
なので、この感触は持ち合わせた上で12月の定期、そして「コジ・ファン・トゥッテ」で確かめることにしましょうそうしましょう。

では、そんなオーケストラの変化を感じたような印象を受けつつ聴いたコンサートの感想をプログラム順に。

冒頭から響きの変化を感じたドヴォルザーク、これは若きチェリストの雄弁な演奏に、オペラで活躍するマエストラが見事にサポート、スケールの大きさと繊細さが両立した傑作にふさわしい演奏になったかと。
演奏には、初顔合わせゆえの、もしかすると粗さに感じられる部分がなかったとは言いません。ワイラースタインはフレーズを抑揚に応じて伸縮させるし、マエストラは少々意外なほどテンポを大きく動かすのだから、ただの整った演奏にはなりようがないのです。それでも上述の通り、その場で生まれる音楽をより良いものにしようと追従し時に主張するアンサンブルは確かな存在感。お見事。
ワイラースタインのアンコールはバッハ、無伴奏組曲の第三番からサラバンド。ヴィブラートも表現技法の一つとして使い分ける彼女の、ゆっくりとした語りのようなバッハはこの日のコンサートで一番の秋らしい音楽だったように思います。

そしてシモーネ・ヤングの個性は、後半のブラームスでより明確に発揮されました。ドラマティックな音楽づくりは「荻の声心にしみるブラームス」的な演奏を期待した人には合わなかったかな、と少々心配になるほど劇的なもの。特にも両端楽章のクライマックスは苛烈なほどに追い込み、この曲では初めて聴くほどの壮絶なドラマが描出され、個人的にはその激しさはチャイコフスキーの交響曲第六番にも通じるものと思われた、と言ったら信じてもらえますかしら?(笑)
音楽を音そのものとして示す以上に、場面として自然にドラマを想起させる、大きく音楽を動かすときの自然な移行はまさにオペラのそれ。大きく迷いない指揮姿もオーケストラを迷わせることのない明確なもの、やはりこの指揮者の本分はオペラあ、ドラマにあるのでしょう。

そしてこの日、最上さん(オーボエ)のツイッターを参照するならリハーサルとはまた違うテンポ感を示されていたようなのです、マエストラ。そこに全力でついていった東京交響楽団に進化を感じた、と言っては失礼になるでしょうか。指揮者の描き分けにただついていくだけではなく、そこかしこにオーケストラからの提案、主張が感じられたように思うのです。それは間違いなく、その場で音楽を作り出そうという即興的な姿勢に思われて、「これですねノット監督!」と何度も思った千葉であります。演奏を整えて滑らかな仕上がりへと持っていくことは、今ももちろん求められればできるのだろうけれど、変わりつつある東京交響楽団はそういう静的な音楽ではなく動的な、よりドラマティックな音楽づくりで私たちを魅了してくれるようになる。その段階はおそらく、この夏のブルックナー→ベートーヴェンの時点で始まっていて、ツアーを経てその新しいポジションにもなじみつつある。そんな感触が強く残る、秋の午後の演奏会でした。

この調子ならばきっと、サントリーホールでのコンサートも新潟の公演もまた違う演奏となることでしょう。会場に行かれる方、お楽しみに。さらに申し上げましょう、この組合せで演奏される「ナクソス島のアリアドネ」もまた、興味深い上演となることだろう、と。大編成でロマン派をドラマティックに演奏したこのチームが演奏する、室内楽的に作られた「小さな宝石のような美しいオペラ」。乞うご期待、と僭越ながら私から申し上げておきましょう。

長くなりました、本日はここまで。ごきげんよう。

読みました:石川栄作「ジークフリート伝説」

こんにちは。千葉です。

TPPについて自分が問題意識を持ったのがいつだったか、と昔のブログをちらっと検索したら2011年の1月でした。その頃から意識して情報を見てきたつもりだけれど、けっきょくはこういう理屈のない力押しで無謀な策に打って出るのは伝統なんですかねこの國。まあそういう話はいいや、ここで深入りはしません。

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「ニーベルングの指輪」について、昔っから引っかかっていたことがあるんです。いくつもの先行作、引かれた神話や伝説はあるけれど、ワーグナーの作品はあまりに独特な捻りが、酷く言うなら捩じれがあるなって。
何を隠そうその昔、今のようにはファンタジーものが読めたり見られなかった時代に青少年だった千葉は、ワーグナー作品をちゃんと聴くよりず~っと先の高校時代に先行作の一つで根本な部分で近い作品、「ニーベルンゲンの歌」(岩波文庫)を読了していたのです。どうよ(いや威張るほどじゃない)。そこで認識したお話と、ワーグナーのあらすじとは話が違う、違いすぎる。なぜか。
今も引っかかりがなくはないとは言えもちろん、少しずつ知識を増やすと北欧神話も参照されていること、何よりワーグナー自身の創作としての性格が強いことがわかる。ふむ。

それでもどうにも納得がいかない。重視しない登場人物に対して冷淡なワーグナーの台本※では、「歌」の後半で主役として活躍するクリームヒルトが、グートルーネという(申し訳ない言い方になるけど)端役に落とされているのはどうなのか。
「リング」はそもそもが「ジークフリートの死」という戯曲の執筆で始まっている以上、彼を失った妻の復讐譚は無用の長物です(もし彼女の復讐を戯曲として書くなら大長編になるし、それをオペラにしたら疑いようもなく「リング」がもう一作できるか、大胆にカットした「アイーダ」的な作品が作られねばならないでしょう)。でもクリームヒルトがちゃんとしたブリュンヒルデとの対決もなしに落胆のあまり固まったように動かなくなっちゃうその他大勢扱いだなんて。そう思ってしまうから、実は今でも「黄昏」を見るたび少し引っかかります。だから千葉は「台本を別人に書かせればワーグナー作品はもっとよかったのに」とか本気で申し上げてしまうのですが(非人間的なまでのリテイクになるでしょうけど。とは言いながら、ワーグナー氏豪腕な人ではありますけど、対等に反論されたらあるいは…とか思わなくもないんですよね(笑)。もちろん妄想ですけど)。

※「ラインの黄金」でいえばフローとドンナー、そしてフライアはちゃんとしたキャラクターとしてみなせる強度を持ち合わせていないでしょう(だから歌手、演出は大変だろうと思う)。見方によってはファーゾルトもかなり。「ワルキューレ」以降はそういう記号的なキャラクターが減るものだから、一転して「黄昏」でのグートルーネ、もしかするとグンターはかなり造形的弱さが際立ちます。人としての弱さだ、と取ってもいいけどそれなら相応の描写がなければいけないでしょう。

そう思っていた千葉には非常に助かる本、読みました。



出番はないけれど「ラインの黄金」に始まり、終幕では落命しているけれど「神々の黄昏」で終わるジークフリートの物語は、先行する神話、伝承、そしてその集大成を元に作られた戯曲などを先行作として、おそらくはある程度以上の知識を持ってその上で自分の作品としてまとめ上げたのが「ニーベルングの指輪」である、というのはどこの解説にも書いてあります。たぶん。そして先ほど触れたとおり、最初に書かれた台本が「ジークフリートの死」、つまり「神々の黄昏」の前身であったことも。
では、それらのワーグナーによって参照された伝説、神話伝承、それらによる作品はどのように成立して、どのような形で「リング」の中に活かされているのか?を、丹念にたどった研究を、一般向け書籍としてわかりやすくまとめてくれたのが本書です。学術文庫ですけど一般書です。

五、六世紀ごろに成立した伝説を源流とし、ドイツおよび北欧各地で語られる中で変容して「ニーベルンゲンの歌」が成立し、そしてそれらを元に韻文や戯曲が作られて、ワーグナーの作品に至る。細部を切り捨てて大ざっぱにまとめればこうなりますかしら。
「歌」と一口に言ったとき、私たちはきっと岩波文庫から出ている相良守峯による訳本を想定するところですが、あの形に至るまでの歴史がもう、長い!(笑)情報伝達が口伝によっていた時期からのものだから今我々が知る形に落ち着くまでに数世紀かかっていても当然なのですが。
また、口伝だからこそ様々に変異して別ヴァージョンもできているわけです(ちなみに本書の著者、石川栄作先生による別の写本による訳も今は出ているとのことです)。成立の過程において被った時代的変容などもここでは丹念に紹介されていきますし、それがどうワーグナー作品に反映されたかもわかるようになっています。本物の(おい)ハンス・ザックスによる作品や、ワーグナー自身がおそらくは読んだだろう戯曲についてまで、それはもうきっちりと。

そしてもうひとつのワーグナーに至る源流は、神話、伝承の集合である「エッダ」「サガ」です。こちらについても「歌謡エッダ」、そして「ヴォルスング・サガ」、「ティードレクス・サガ」がどのような作品であるか、ワーグナーはどこを使ったかをていねいに紹介してくれます。その上で、ワーグナーは割と自由に先行作を用いて「リング」を作ったのだな、と申し上げざるを得ない。取捨選択を自由にしなければ前述の通りクリームヒルトによる復讐譚を削れませんし、というと身も蓋もなくなりますが(笑)、設定のみを使ったり意味合いを逆にしてみたりと、まさに融通無碍です。

とは言いながら、そうした取捨選択は当然のことです、「リング」は「歌」や「エッダ」の再話ではないのだから。制作においてワーグナーがそうしたように、受容する私たちも積極的に読み、聴かなければならない、のかもしれない。きっと演奏家も演出家も積極的な読みをした上で上演をしているのだろうから。
などと、今年はすでにワーグナーの二作を経験した千葉は思う次第であります。この先近い時期に「ラインの黄金」、「ワルキューレ」が演奏・上演されるし、来年には後半二作の上演も控えています。いろいろと学んじゃうなら今がその機会だと思う次第ですよ。
ちなみに、著者の石川栄作先生自身による解題がリンク先で読めますので、そちらもご参照あれ。

では本日はひとまずこれにて、ごきげんよう。


2016年11月3日木曜日

シーズン4に向かって、ノット&東響(その一)

こんにちは。千葉です。
訳あって、いやなくてもお仕事募集中応相談です。気軽にご連絡くださいませ。というのを毎回書くことにしました。うるさくてすみません。

おそらく、いま前説を書くべきことがある、書いておかなければ後悔するとわかっているのだけれど、それの出し方はまた別途考えます。それとは別に、今お出ししておかないと後悔するものを記事として出しちゃいますね。

10月20日からまる一週間+2日にわたって行われた欧州ツアーの壮行会を兼ねた、ジョナサン・ノット&東京交響楽団『シーズン4』 2017/2018年シーズンラインナップ記者会見の模様を全二回で公開します。

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2016年10月11日、ミューザ川崎シンフォニーホールのステージを会場としてジョナサン・ノット&東京交響楽団『シーズン4』 2017/2018年シーズンラインナップ記者会見が多くの報道陣、そして聴衆として熱心に東響を支えるサポーターを招いて開催された。ジョナサン・ノット音楽監督の長期契約更新の初年度、そして創立70周年記念イヴェントの中でも頂点となるだろう欧州ツアーへの壮行会としての意味合いもあって注目を集めた会見ではオーケストラから、そしてジョナサン・ノットから熱いメッセージが発信された。
福田紀彦川崎市長からのメッセージ、大野順二東京交響楽団専務理事・楽団長からの挨拶に続いて行われた、ジョナサン・ノット音楽監督からの、シーズン4への熱いプレゼンテーションを紹介しよう。

シーズンプログラムを手に、存分に語るノット監督

●音楽作りについて
今日はようこそお越しくださいました。昨晩は第4シーズンについてお話するためにプログラムを見直して、「こんなことも計画したか」「こんな素晴らしい作品を取りあげるのか」とと驚いたりしましていた(笑)。
では、まずここでの音楽づくりについてお話したいと思います。私は、本物の音楽作りは即興性の中にあると考えています。演奏者と聴衆との、今そのときにしかない特別な時間、その時にできる演奏を大事にしたいのです。だからリハーサルと演奏会では同じことをしようとは思わないし、実際できないでしょう。もちろん演奏のコンセプトや方向性はリハーサルで作り上げたます、ですがその上で演奏会ではリスクを取って表現をより深く、個人的で、自由なものにしたい。演奏のたびに私たちが違うように、コンサートごとに聴衆の反応も変わります。それは我々の表現が皆さんに伝わっているからなのではないでしょうか。

●欧州ツアーについて
私は以前から、ぜひ東京交響楽団とツアーを行いたいと考えていました。オーケストラが行う国際的なツアーには、三つの重要なポイントがあると思います。
まず、ツアーの際にオーケストラが集団として同じ行動をとることは、メンバー同士を音楽的にも、社会的な集団としてもより強く結びつけてくれるのです。
そして二つ目は、特に私個人にとってですが、同じプログラムを繰返し演奏できることが重要です。いつでも演奏会のために創り上げた演奏を、100回でも演奏したいと思っているのですから!(笑)繰返し演奏することで、表現をより深めていくことができるのは本当に喜ばしいことです。
最後に、音楽は言葉では通じ合えない人間同士をも結びつけることができるものだ、ということを音楽家が体感できる貴重な機会だからです。ツアーでは、言葉が通じない経験とともに音楽によって交流できるという認識が同時に訪れ、それは音楽家一人ひとりに「自分は何故音楽家になろうと思ったのか」という原点に立ち戻って考えさせることになります。また、音楽を通じて、音楽を言葉では十分交流できないかもしれない聴衆と共有することで個々人を、引いては世界をも変えることができる、その意味で音楽家は世界大使になれると思っているのです。

●プログラムについて
では来シーズンのプログラムについてお話しましょう。素晴らしい作品、プログラムが並んでいて私自身も見直して圧倒される思いでしたが、今日は私が指揮する六つの演奏会についてお話します。
一つの作品の中にも”旅”が、ストーリーがあり、作品を集めて編んだプログラム全体にもそれがあります。これらの演奏会を経験することで、私とオーケストラは互いに理解を深めていけるでしょう。将来的には一人の作曲家によるプログラム、たとえばベートーヴェンやマーラー、R.シュトラウスなども取り上げたいとは思いますが、いまはテーマを考えていろいろな作曲家の作品を組合せてプログラムを提示したいですね。

1.5月定期&川崎定期
ブルックナーの第五番という素晴らしい作品を取り上げます。この作品を初めて聴いたときにはまったくいいと思わなかったのですが、そんなはずはないと考えてスコアを読みました。たしかにこの作品は長いし、そして複雑に構成された難しい作品ですが、非常に美しい。モーツァルトと並べるとそれぞれの個性が際立つでしょう。

2.7月定期&川崎定期
素晴らしい東響コーラスとともにマーラーの交響曲第二番を演奏します。ブルックナーと同様、マーラーの作品もそれ自体がひとつの長い”旅”のようなものですが、今回はその前に現代日本を代表する作曲家、細川俊夫の作品を演奏します。

3.10月定期
このプログラムでは、以前から重要だと考えている新ウィーン楽派の作品の作品から、シェーンベルクの大規模な変奏曲、Op.31を演奏するとまず決めました。この作品は1928年の作品ですが、ラヴェルの「ボレロ」も同年の作なのです。まったく性格の異なる二作品ですが、これを並べると”変奏曲”というテーマができあがります。
シェーンベルクの作品は多くの技法、アイディアが盛り込まれた豊かな作品ですが、無調だから聴きやすいとは言えません。そこで変奏曲の音列に用いられたバッハの名による音形(註:B-A-C-Hを音名として)を用いたリストの変奏曲を冒頭に置くことで、よりシェーンベルクを楽しんでもらえると思います。そこにラフマニノフを加えて「変奏曲」の一夜はできあがりです。

4.12月定期&新潟定期
先ほどのコンサートが「変奏曲の一夜」なら、リゲティのホルン協奏曲(「ハンブルク協奏曲」)ではじまるこのコンサートは「ホルンの一夜」ということになるでしょうか。
先だってBBCミュージック・マガジンのアンケートで「音楽史上もっとも重要な作品」を問われて、私が選んだのがベートーヴェンの交響曲第三番です。彼の作品の中でも最もモダンでスリリングで、興奮させられる作品でしょう。第三番でこれまでの交響曲の三倍も長い、そして三本のホルンが活躍します。”三づくし”の作品ですが、(聖なる三位一体ではなく)民主主義的なあり方に近い作品だと考えています。
そしてホルン協奏曲を取り上げるリゲティは知的な作曲家ですね、どの作品も明瞭なコンセプト、アイディアを持つ、どの作品にも魂を感じさせる、現代の音楽に親しんでもらうための導入には最適な作曲家ではないでしょうか。
このホルンに焦点を当てたプログラムにもう一曲、と考えた時にシューマンを選びました。今回はジャーマン・ホルンサウンドというホルン四重奏を招き、彼らとはリゲティとシューマンで共演します。

5.10月オペラシティ定期
古典派作品を集めたプログラムです。ここで演奏するハイドンの第八六番とモーツァルトの第三九番の交響曲は作曲時期が一年半しか隔たっていない、ほぼ同時期の作曲ですから二人の作曲家の特徴も聴き比べていただけますし、どのように交響曲というものが作られてきたのかがうかがえるでしょう。
(※モーツァルト・マチネではハイドンは演奏されません)

6.5月オペラシティ定期
バートウィッスルの「パニック」がプロムスで初演されたときにはスキャンダルになったものです、冒険的で斬新な手法による作品ですから。サクソフォン、ドラムが活躍するこの作品とともに、サクソフォンを活用した音楽として、バーナード・ハーマンによる映画「タクシー・ドライバー」のための音楽を持ってきました。
そしてベートーヴェンの第八番は、大好きなのですがプログラムに上手く入れにくい作品でもあります。
個人的なことですが、なぜか自分の中でこの作品は東京と結びついています。かつて東京に滞在していたある夜、深夜の二時すぎに目が覚めてしまって仕方がないから勉強でもしようかと思い立った時に選んだのがこの曲でした。録音も持っていたはず、と探して聴きはじめて終楽章までくるころにはすっかり興奮してしまって、スコアを探して勉強していたら朝になっていました(笑)。この作品は人間であることの喜びが表現された作品だと感じています。

最後になりますが、今日会見に来てくださった皆さん、そしてコンサートにいらっしゃる皆さんに感謝を申し上げます。皆さまからの反応で私たちの演奏、プログラムを楽しんでくださっていることが伝わり、そんな経験を重ねるごとに日本での、今回上でのコンサートが心地よくなっています。これからもよろしくお願いします。

いかがだろうか、今シーズンも公演を重ねるごとに関係が深まりより親密な演奏を繰り広げるジョナサン・ノットと東京交響楽団のシーズン4、そしてその先の未来がますます楽しみになったのは私だけではないだろう。

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ここまでが前半です。明日の夜にでも、事務局の皆さまからのコメント、ノット監督が質疑に答えた部分を次の記事でお出ししますね。

欧州ツアーの模様については、東京交響楽団のFacebookで写真が数多く見られますし、楽員の皆さまもTwitterなどで報告していらっしゃいましたのでそのあたりを探されるといろいろなものが見つかるかと。
個人的には各地の評がどう出るか注目していたのですが、ネットでは今のところ最終公演ドルトムントの、本当に聴いたのか疑問になる微妙なものが一つ見つかっただけです。あの演奏で「正確だが感情的に弱い」ならどんな演奏すりゃあいいのさ、と思わざるをえないっすわー(自分の耳を疑う気はない←割と傲慢じゃのう自分)。そんなわけだからリンクも貼りません、あれを読んでも仕方がない。

で、最後になぜ急ぎ記事を公開するかと言いますればですね、本日東京交響楽団の帰国後最初の演奏会が行われるからです。ミューザ川崎シンフォニーホールで14時開演の名曲全集、指揮はシモーネ・ヤングです。詳しくはリンク先で。さて日本からの”大使”として様々な経験をしてきただろうオーケストラはどう変わっているでしょう、ということを確認するその前に、ぜひノット監督が今回のツアーに込めた思いの程を知っておいていただけると何かと伝わるものもあるのではないか、と考えました次第です。
なおノット監督が次に登場するのは12月、そこで演奏するプログラムと今月のシモーネ・ヤングのプログラムは両方聴いたほうがよさそうです、と感じた話が明日の分に入ってきます。あと、「コジ・ファン・トゥッテ」は大好きな作品なので何かしらの取材等をします。という予告込みの本日分はまずここまで。ではまた、ごきげんよう。

※ただのオタクの駄文でしかないとご批判をいただき、内容を観ていただけない可能性に気づきましたので改題しました。ご指摘に感謝します

2016年11月1日火曜日

読みました:紀田順一郎「[増補]20世紀を騒がせた本」

こんにちは。千葉です。

切実にお仕事募集します。応相談。

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応相談なのでこの話はおしまい。以下読み終わった本の話をします。

紀田順一郎のこの本、前にも手をつけてしかし読了できなかった記憶がある。ものを知らなすぎるとていねいに教えてくれる本さえ読めないのだ、という好例になってしまったぜこんちくしょう。
本書では、タイトルのとおり20世紀に話題となり、あるいは騒動の元となり、はたまた災厄をもたらし、と大きく影響を与えた本をその時代におき直して改めて紹介する本だよ。そんなにていねいに教えてくれる本なのに、前に手を出したときにはピンとこなかったんだよ。バカだなあ、あっはっは(捨て鉢)。

本書で詳細に取り上げられる本は以下の通り。

フロイト「夢判断」
ヒトラー「わが闘争」
ロレンス「チャタレイ夫人の恋人」
ミッチェル「風と共に去りぬ」
ルィセンコ「農業生物学」
アンネ・フランク「アンネの日記」
ボーヴォワール「第二の性」
カーソン「沈黙の春」
ソルジェニーツィン「イワン・デニーソヴィチの一日」
毛沢東「毛沢東語録」
ラシュディ「悪魔の詩」

えーっと、この中で千葉が既読だったのは、あのその「風と共に去りぬ」だけです。すみません!
フロイトはたしか「精神分析入門」を買った気がする(読んだとは言ってない)、「アンネの日記」も抜粋なら読んでいるけど、今となってはそれは読んだうちに入るのかどうか。ソルジェニーツィンは「収容所群島」ともども読もうと思いつつ、あらかじめ予想される重たさにちょっと。生物学は高校でもやってないから手が出ない、ヒトラーとマオは気が進まない(この二人が同列だと言いたいわけではない)、ラシュディは訳が微妙と聞いて手が出せない。「チャタレイ夫人の恋人」は映画をちらっと見たかなあ…(昔はお色気枠に入っちゃった映画を深夜に放送していたものなんですよええ)

それらの本を読んでいなくてもわかるように解説してくれている本書は、本当にありがたいものなのに、かつての千葉はそこに知らない情報が多すぎて読み進められなかったんですね、悲しいのう。ほら、知らない言語を聞き続けていると眠くなっちゃうこと、あるじゃないですか。そういう感じです(何を偉そうに)。当時は歴史、あまり興味なかったんだねえ私。はあ。

作品が成立した時代は本書が説明してくれるし、その時代で果たした役割も書かれてます。だからかつての千葉のように、「何この本、知らないこと多いんですけど~」と弱気にならず、とりあえず手にとって見てくださいな。新しい本ではないけど。20世紀の振り幅の大きさ、そして過去との連続性、今思えば現在にも直接つながる出来事の振り返りなどなど、いろんな読み方ができると思いますので。

以上かんたんなご紹介でした。20世紀のうちに原本が出ていてしかも平凡社ライブラリーに入っている古い本ではありますけど…ではまた、ごきげんよう。

2016年10月29日土曜日

総裁の言葉に得心 ~ウィーン国立歌劇場「ナクソス島のアリアドネ」

こんにちは。千葉です。

洗濯物やお野菜の高騰について思い悩む今日このごろではございますが(見事に悩んでもどうにもならない案件のみである)、昨日は先日記者会見に伺ったウィーン国立歌劇場来日公演、最初の演目「ナクソス島のアリアドネ」を拝見してまいりました。あの空のピットに素晴らしい音楽家が入り、空の舞台で芝居が展開されるわけで、期待しない訳がない。舞台は満喫できました、道中雨さえ降っていなければ文句なしでしたが(笑)。なんというか、つまるところオペラやコンサートに限らない一般論になっちゃいますけど、アートはきちんと体験しないと理解できないものなんですね、としみじみ。

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「ナクソス島のアリアドネ」というオペラについての説明的なものは割愛します(NBS様のサイトなどご参照くださいませ、音聴かないと、と思われる方はCDショップでベームの盤を買うなり(世代感)YouTubeで検索なり、手はいくらでもございますし)。今回の舞台の雰囲気は公式配信されているトレイラーでご確認くださいませ。



この舞台でのベヒトルフの演出は、あえて前芝居のドタバタを後半に地続きで持ち込むことによって劇中劇をカッコ内に収めるもの、言いかえればあくまでも「前芝居=現実/オペラ=フィクション」という虚実を混ざらないよう示すスタンスが根底にあります。だからメタフィクション的不安定はあまり感じない、楽屋話的に安心して見られる舞台となっていますし(人によっては微温的にすぎるかもしれない)、お話もこれ以上なく収まりよく着地します、アリアドネとバッカスは上演が終わればプリマとテノールに戻って笑顔でお疲れさん、さらに作曲家のドラマまで回収して幕は降りるのです。混在する二つのグループは衣装で明確に見分けられるのだけれど、現実サイドと地続きである以上オペラパートは「先ほどまでやりあっていた彼ら彼女らによって、強いられて半ば即興的に演じられるお芝居」として見ざるをえないわけです。

作中でその場しのぎに歌われ演じられるオペラ(として作られた作品←言葉にするとややこしいけど見れば一目瞭然)は、そのままではフェリーニの映画のように別の水準にお話を持ち込まなければ終われないのでは?(それこそ終わらないパーティ空間が荒廃するところまでやっちゃうとか、オケがリハーサルしている会場が破壊されるとか謎の行進がはじまるとか、そういうあれ)ともなりかねないわけです。実際、ツェルビネッタが示すオペラ・ブッファ(とその前提にあるコメディア・デラルテ)と、アリアドネが示すオペラ・セリア(これも前提はあって、そのものずばりギリシア悲劇ですね)はまとまらないよね?と思い始めたまさにその瞬間に登場するのがバッカス、これでこそエクスデウス・マキナでありますよ神様ありがとう。そしてそのバッカスを演じたステファン・グールドの素晴らしさたるや、それはもう。

これは記者会見の記事では書ききれなかったのですが(文字数の関係)、ドミニク・マイヤー総裁はコメントの中で何度かグールドが出演できることをうれしく思っている旨、特別に言及されていたんですね。作曲家役のステファニー・ハウツィールも代役だけれどこちらはカンパニーのメンバーだからあえて言うこともないのかな?とも思えて書きにくい気持ちがありました。
しかしながら実際のところはさにあらず。まず、毎年この作品を上演するカンパニーで、メンバーが代わる代わる登場することはオペラハウスの、とくにもレパートリー方式を採用するウィーンではこうしたアンサンブルの変更はある意味”日常”なのでしょう。その中でいつもどおりのパフォーマンスを発揮してくれるだろうハウツィールについては心配などするわけもなく、安心してお任せだったのですね。彼女自身が会見の中で「特に前芝居でがんばる役ですね(笑)」と話していましたが、あのバタバタしやすい芝居の中であれだけ自由に振る舞える彼女に対して今さら心配する方がむしろおかしいのです、彼のカンパニーで信頼されている大切なメンバーなんだもん当たり前でした。邪推してごめんなさい(笑)。

そしてグールド。特にバッカスとしての彼ですが、これはねえ。先日の新国立劇場でその歌の威力は知っていましたから、また登場してくれるんだうれしいなあくらいのつもりでいたんです。会見で「このプロダクションを作ったときのメンバーですから心配はない」と話していましたから、そりゃあ総裁も力強いよね、ボータの逝去という残念な理由による代役だけどひと安心だね、位の話かなってメモを取っていたあの日の千葉を叩いてやりたいです。新国のあと台湾で「大地の歌」(国立交響楽団、指揮はオッコ・カム)を歌って今回の舞台と、この二ヶ月東アジアで大活躍ですよ彼。
この混沌を「神の声」で収めなければ芝居が壊れる……!という、この作品では、というかこの演出では絶対的な存在感が求められる難役がバッカスなんですね(北島マヤかお前、いやそれよりメタフィクションはあらかじめ壊れているね、とかツッコミはなしでお願いしますすみません)。
その大役を信頼して任せるはずだった、ヨハン・ボータの永遠の不在によって開いてしまった穴がどれだけ大きかったか、そしてどれほどの衝撃だったか。この上演を経験した今にして、ようやくその痛みが理解できたようにも思っています、彼もまた英雄として”神”たりうるテノールだったのですね、と。千葉は残念ながら彼の声を実演で聴く機会を得られなかったのですが(欧州で大人気、大活躍されている歌手は本当に多忙なので全盛期に日本で聴くことはそれだけでも難しいです)、彼の友人で今回彼の代役を務めるグールドによって、間接的にながらその存在を感じ取れたように思います。何を見ても何かを思い出す、であります。

本題に戻ってグールドですが。前芝居でも少々の出番はあるけれど、見せ場はやはりバッカスとしての登場以降です、というかそこからが長丁場でもう。それをねえ、圧倒的な存在感ともちろん声で場を作り出してしまうあたり、本当に旬の歌手なんですねえ彼…前に映像で見かけたジークフリートもよかったし、先日が初役だったというジークムントもよかったけれど、これはもう。逆光気味に舞台奥から登場して発した第一声で隣席の方が身を乗り出す気配を感じたほどの衝撃ですよ(これは実話)。悲壮感漂うジークムントとは違って、超然としたバッカスは迷いはあっても存在は揺らがない、その違いを声だけで示せる歌手が聴けて千葉は幸せでした。こう書くと技巧的には、とか体力は、とか思われるかもしれませんが、先月のジークムント同様盤石の出来でございましたので、日曜に聴かれる方はぜひお楽しみに。

神様(え)が美味しいところを持っていってしまったのですが、この作品のメインキャストはそれぞれに大役で難役です、しかもグールド以外のメンバーはオペラでは出ずっぱりに近ければ、登場一声場内を圧すとはなりにくい。いやそんなことをしてペースを乱されても困ります(笑)。
プリマドンナ/アリアドネのグン=ブリット・バークミンは「サロメ」(N響の公演を放送で聴いた)とはまったく違う役、それも文字どおりの二面性が求められる役(というか二役だからそれ!)を見事に演じ分け、さらに終盤の二重唱まで力強い声を維持しておりました。さすがです。会見では前芝居について「私たちの日常を描いたような」と笑いながら語っていましたので、前半後半ともこのオペラを楽しまれていたのだろうと思いましたよ。

ツェルビネッタのダニエラ・ファリーは前回来日(バイエルン国立歌劇場/リンク先は当時のもの。こうして自然にアーカイヴしてくれることのありがたさたるや。情報は残しておけばとそれだけで歴史的価値が出るんですよ!と声を大にしておこう)でも聴かせた同役で(千葉は未聴ですが下の動画参照)、確実な技巧と繊細な表現を両立してみせるあたりさすがです。
参考までに貼っておきますが、この動画はファリー自身のチャンネルであげている公式です。かつてもこれくらい力強く歌えていたこと前提に比較すると、今回はむしろ弱音で聴かせてきたような印象かなと。



ちなみにまったくどうでもいいことですが、千葉はもうおじさんなのでツェルビネッタちゃんくらいの恋愛観でいいような気がしてしまいますけれども皆さま如何でしょうか(回答は募集していません)。ロマン派の恋愛観、恋愛(自他の二者間関係、と普遍化してもいい)が世界そのものであり得る瞬間を描いたものだと理解してなお受け容れがたい気分になるんです、おじさんなので(しつこい)。「ウェルテル」とかね、そういう歴史に名を残す名作はできるだけ若いうちに、共感できなくても読んでおくべきなんですよお若い皆さん、年を取ってからは理解度は高まるけれど受け入れ難くもなりますゆえ(今度は説教か)。

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そして小編成のオーケストラを率いたマレク・ヤノフスキは、おそらく舞台に流されない、ある程度ステージから自立した音楽を意識されていたのかな、と感じました。そもそもが楽屋落ちというかメタフィクションというか、批評的意識を内面化した作品なのだから音楽もまた批評的な客観性を保つべき、と考えたのかもしれません、結果としてオペラというよりコンサート寄りの、器楽的なアプローチに感じられた部分もありました。会見で「数々の代表作とは違う、洗練された作品なので」と語っていたマエストロは音響的にも流れ的にもきっちり全体をコントロールして聴かせてくれました。かつてレジーテアター的な「音楽より演出を優先させる」上演を拒絶したマエストロによる「芝居より音楽」という主張だったのかもしれない、とも思ったり。この作品ならば舞台と音楽の相乗効果的なやり方(言ってしまえば悪ノリ的なそれ)もあるんじゃないかな、もしくは音楽だけでも虚構性を強調する方向に暴走してもいいのかな?なんて思う瞬間もありましたが、それではこの作品の持つ洗練からは離れてしまう、とマエストロは考えていらっしゃるのでしょう。
年齢を感じさせない積極的な指揮は先日拝見したふだんのお姿とはまったく違うもの、来年春の「東京・春・音楽祭」でもきっと引き締まった「黄昏」を聴かせてくれることだろう(そして我らが放送交響楽団とは相性がよろしかろう)、と認識させられる指揮姿でありました。

その指揮のもと演奏したウィーン国立歌劇場管弦楽団(ことだいたいウィーン・フィル)はですね、手の内に入った作品を演奏させたら世界一ですよね、いやはや。っていうかこの作品が手のうちに入っているあたりがすでになんというか。室内楽的、というよりむしろ独奏者的技巧や存在感が示せ、しかも小編成ながら十分な音量的クライマックスを最後の最後に作れる持久力もあるアンサンブルなのだから褒めるしかないのですよ。上手下手とか、言っても仕方ないと思っていますのに。こういうドラマ的なセンス、きっとあとの二作品ではもっと発揮されることでしょうね、編成も普通のオーケストラになりますし。
なお、国立歌劇場は来日公演の最中にも現地での公演を行っており、今月の上演回数は40階にも及ぶのだそうです。音楽の都の日常の水準がそら恐ろしく思えるエピソードでございました。

なお、個人的に得心できたのはこの作品でひそかに活躍しているハルモニウム(リードオルガン、ハーモニウムとも)の存在感ですね。その昔、今年何故か”流行”したマーラーの交響曲第八番で知ったこの小さいオルガンがこんなにアンサンブルの支えとして機能できる楽器だったとは。えっとですね、弦楽器がソリスティックに活躍している時間帯に裏でロングトーンをしている、独特の音色がハルモニウムですので、最終日行かれる方は要チェックです(いや気にならないかもですが)。

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「微温的かも」とは書きましたが、ベヒトルフの演出はホフマンスタールの含みの多い台本による作品を繰返し楽しめる舞台なのだろうな、という感じが見終わって一日が経ったいま、しみじみと感じております。読み取れること、読ませたいこともいろいろと仕込まれているのだろうこの舞台、何度も見られたらいいのに…と思う私のような人はウィーン国立歌劇場のオンデマンド配信サーヴィスを利用すべきなのかしら(頼まれもしないのにさりげない宣伝)。

それはさておき、ウィーン国立歌劇場の来日公演は明日が「アリアドネ」の最終日で、その次の日曜から「ワルキューレ」(ベヒトルフ演出)がスタート、少しずれて重なる日程でポネル演出の「フィガロの結婚」が10日(木)から横浜で開幕です。欧州の劇場で数多くワーグナーを指揮するアダム・フィッシャー、言わずと知れたリッカルド・ムーティが登場するわけですから、演奏の質はあらかじめ保証されたようなものでございます、お嬢様(執事か)。詳しくはリンク先でご確認するがよろしかろう、ほっほっほ(爺か)。

というご案内でひとまずはおしまい。ではまた、ごきげんよう。


2016年10月28日金曜日

書きました:ウィーン国立歌劇場2016年日本公演 記者会見レポート

こんにちは。千葉です。
この前まで残暑気分だったような気がしていたのはきっと気のせいですね、疲れて部屋でぼんやりしてるとときどき足が冷えて風邪をひきそうになる季節になってます。恐るべし。

それはさておき、寄稿した記事の紹介です。いつも書かせていただいているところとは別に、公式のレポートです。

●ウィーン国立歌劇場2016年日本公演 記者会見レポート

10月24日に東京文化会館の大ホールで行われた会見のレポートです。記事にも書きましたが、今回は普通の会議室ではなく設営の終わった舞台上で会見が行われてなかなか不思議な気分でした。


出席した私たちが見上げる天井はこんな感じで。劇中効果的に使われるシャンデリアのセッティングについてもNBSさまのブログで紹介されていましたので、気になった方はぜひご覧ください。これぞ引越し公演、と感じさせる近年では珍しくなってしまったフルサイズのオペラハウス来日公演の醍醐味、ですし。

千葉もいちおう写真は撮影していますが、記事中の写真のほうがもっといいので(当然です)出演者についてはそちらをぜひご覧ください。ぜひ。


なお、「ナクソス島のアリアドネ」については本日の公演についてまた別途ご紹介すると思います。最高に美しいメタフィクションを満喫して参ります所存。です。


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それにしてもですね、アマチュアで演奏会していた頃から思っているのですが、開幕前の舞台ってどうしてこうも魅力的なんでしょう。


シュトラウスのあの音がこの編成から出てくるのか、とかこういう配置ですか編成独特だものなあ、なんてクラシックの人っぽい感想もあることはありますが、単純にワクワクするんですよねえ、この絵に。オケピットはリハ中の団員の皆さんがギュウギュウに入っている感じも捨てがたいのですが、無人の状態にはまた違う魅力を感じます。ということで撮った一枚。
…まあ、自分たちの演奏会はたいがい開演前とそう変わらない客席に向かって演奏することになってまあなんというかでしたけど。お、音響的には客入れ前のほうがいいんだからね!(切れるなよ自分)

ウィーン国立歌劇場管弦楽団(という名のほぼウィーン・フィル)の音で聴くシュトラウス、もしかして実演だとはじめてかも…と今気がついて少し緊張してきましたが(ベルリンとかバイエルンとかバンベルクとかドレスデンとかドイツの団体では割と聴いていますし、この春にはノット&東響の演奏がありましたけどね)。メタ的な仕掛けのシュトラウス、ということではいろいろ考えていることもあるのでそれは公演を見たあとにでも。

ではひとまずご案内でした。「アリアドネ」、本日の公演は当日券が出るけれど最終日は少なめと聞き及んでおりますゆえ、興味のある方はぜひ万難を排して上野に駆けつけられよ。しからばごめん(文体が変)。

2016年10月16日日曜日

書きました:アンドレア・バッティストーニ 東京フィル首席指揮者就任記念特集

こんにちは。千葉です。

夜ご飯を軽めにすると、もしかするとかんたんにダイエットできちゃう人かもしれません、千葉。いや別に痩せたかったんです!とか言うこともないんですけど、これまでベルトなしでもいけないこともなかったジーパンがずり下がって危険な瞬間が最近あるものですから、どこかで書いておこうかなって(誰が嬉しい情報なのかそれ)。

さてつまらない前フリはここまで、先日のテレビ放送に合わせて公開できました二つの記事をご紹介ですよ。


東京フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者に就任したアンドレア・バッティストーニの記事を二本、書かせていただきました。そのうち一本は単独インタヴューですから、それは頑張らせていただきましたよええ。今年の5月に、噂の指揮者の実力の程を見せてもらおうかと(偉そうな上に経緯としてほとんど嘘)取材のお願いをさせていただいて本当によかったです。しみじみ。

リハーサルにコンサートにトークにと、東京フィルハーモニー交響楽団さまのご協力あって彼の音楽に半年の間多面的に触れることができたおかげで、そしてなにより彼が聡明で雄弁な若者であるおかげでインタヴューはなかなか充実したものにできたかと思います、ぜひお読みくださいませ。

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ここで書けるようなこぼれ話を残せるほど、記事では対話の内容を削っていないので(ほんとうにほぼインタヴューの全文なんです)、B面っぽいことはあまりないのですがひとつだけ。

長い時間に渡ったインタヴューのお礼を申し述べた後、通訳の井内さんにお願いしてひとことだけ、個人的にお伝えしたかったことをマエストロにお話しました。お伝えしたかったこと、というのはこういうことで。

「マエストロがご存知かどうかわからないのですが、日本では数多くの若者が吹奏楽というジャンルで音楽を楽しんでいます。そこではレスピーギの作品が多く演奏されていまして、あなたの演奏会とレコーディングは彼らがオーケストラの演奏に触れるきっかけにもなっていると思います。そこで素晴らしい演奏を聴かせてくれていることに、かつて吹奏楽でクラシック音楽に触れた私からお礼を言わせてほしいのです」

という感じに、インタヴュー記事の文体に近づけたらなるかな、という内容の話をしたんですね。
吹奏楽の皆様は御存知のとおり、レスピーギの作品はよくアレンジ版で演奏される割に三部作以外は参考にしたくなるような魅力的なオーケストラの演奏がそう多くあるわけではない、そして演奏会でも多く取り上げられるわけではない。そこに来てバッティストーニ&東京フィルがローマ三部作をレコーディングし、コンサートで「シバの女王ベルキス」「教会のステンドグラス」を演奏してくれているのだから、ありがたく思わないほうが難しいです。(個人的にはそれらの演奏がある程度まとまったところでリリースされるのではないかと期待している)

そんな気持ちをお伝えしたところ、マエストロからは「そんなふうに受容されていることは知っている、少しでも多くの人にジャンルを超えてオーケストラ音楽を聴いてもらうきっかけになればいいよね」といったお返事をいただきましたよ。

かつて吹奏楽青少年だった千葉からもお願い申し上げます、アンドレア・バッティストーニ&東京フィルの演奏が魅力的に思えた皆さまはぜひ、ジャンルに囚われない音楽への接近を試みていただければ、と。「のだめ」で一躍ポピュラーになったベートーヴェンの交響曲第七番でも「地獄の黙示録」見た勢いで新国立劇場行った勢いで「ニーベルングの指環」全曲に手を出してもいいっす。もちろん、アンドレア・バッティストーニが聴かせてくれるイタリア音楽からさらに幅広い音楽を聴いてくれてもいいっす。インタヴューで彼が言っていた「音楽には”正解がないので」ということを知って、その上でいろいろなものを知ることに意味があると中年男性になった千葉は思うわけです。
とか、お話を聞いただけで勘違いするタイプの意見でありました。

本日は「題名のない音楽会」が朝夜と放送され、マエストロが”マスカーニが書いた最も素晴らしい音楽”と評した歌劇「イリス(あやめ)」の演奏会があります、皆さまがそれらを楽しむ一助となれば幸いです、と申し上げてご案内はおしまい。ではまた、ごきげんよう。

2016年10月11日火曜日

書きました:新国立劇場『ワルキューレ』名唱の饗宴で初日開幕!【シリーズ『ワルキューレ』#6】

こんにちは。千葉です。

先日の台風、静岡あたりで弾かれて南側に抜けて消滅した、という不思議な進路を辿ったわけですが、今合衆国東南部を襲っているハリケーンも陸に当たって東に流されて、なかなか厳しい被害を出しそうなことになっている模様で。
こういう事象に対して、説明可能性だけで考えるなら、大ざっぱな”異常気象”よりは偏西風の流れる位置の変化を想定したほうがいいような、気がしますけれど、まあ素人がそれを考えてもどうにもなりませんなあ…

床屋政談ならぬ床屋気象予報はさておき、書いた記事のご紹介です。


すでに上演も半ばを過ぎて、初日以降も歌手の皆さんもオケの皆さんもハードな演目と全力で戦っていらっしゃることでしょう。千葉からは初日のレポートとして、舞台と作品の読みを主眼とした記事を出しております。
一言で言ってしまうと「この舞台、けっこう好きよ」ということになりますが、さすがにそれでは何も伝わらないな…とけっこう長文ですけれど、多くの舞台写真を差し込んでもらうことできっと「ヴァルキューレ」という作品と今回の舞台について、一読でそれなりにおわかりいただけるかと。

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記事には書かなかった部分を少々、というかけっこう長く書きます。記事に書いても問題ないないようなのですが、流石にあれ以上長い文を読んで下さい!とは申しにくいのです。

この舞台を見ていると、ワーグナーは「指環」という作品でもまだ女性による救済を希求していたのではないか?という気持ちになってきます。初期作品でそのモティーフはやりつくしたはず、と思っていたのですけれど。
この作品ではヴォータン、ジークムント、そしてフンディングとそれぞれに力のある男性が描かれます。ヴォータンは神々の長、ジークムントはその血を引く人間の英雄、そしてその敵であるフンディングにしてもグループのリーダーとして君臨する、強い男性と言えましょう。しかしながら、本作ではヴォータンは自らの力の根源である契約に縛られて求めるものは得られない。ジークムントは無双の英雄でありながら不遇としか言いようのない境遇に加えて最後の局面では父に裏切られる形で敗北する。フンディングは単独ではジークムントに立ち向かえずフリッカを頼って勝利を得るもその行為自体がヴォータンの逆鱗に触れるものとして落命する。こうしてみるとわかるのですが、誰も何もなし得ていない…
この舞台はその感を抑えるどころか、より強めて示します。ヴォータンはその感情に左右されやすいところを演技で強調する。ジークムントは迷いない存在として表される、まったくぶれない視線はその一本気を強く、しかし脆いものとして印象づけるかのようだ。対してフンディングは文中でも書いたのだけれど往年の西部劇でよく見たタイプの典型的な悪漢スタイルで見るからに勝てる要素が全くない(笑)、それに悪役に擬せられながら権威(フリッカ、婚姻を司る神)にすがろうという姑息さも好感を呼ばない。と、三人共に酷いことを言いましたが、実際この舞台では男性たちがダメなんです。

第一幕はそれでもまだいい方で(戦いはこれからだ!愛し合おうぜ!で終わりますからね)。第二幕には美しく着飾ったツィトコーワのフリッカの前にまともに反論もできないグリムスレイのヴォータンがなかなか哀しいし(彼は存在感あってかっこいいのに)。ちなみに、フリッカが艶やかに着飾っているのはこの大作の中では「ヴォータンとの間に子をなしていないこと」をことさらに強めたものであるようにも思われたし(この推測があたっているとすれば、エルダの描写はどうなるのだろうと心配になる)。そう、ヴォータンに注目してこの舞台を見ていくと、まさに神の没落、黄昏への一本道として捉えられるようにも思うわけですよ。

対してヴォータンを完膚なきまでに論破(笑)するフリッカ、苦難に満ちた生を生き延びることで我が子に未来を託すジークリンデ、そして本作の主役たるブリュンヒルデの生命力たるや。
フリッカは一般に損な役回りと見られがちだけれど、全能者たる神の放恣を押しとどめるこの作品では数少ないリミッター役(次作ではほとんどいませんからねリミッター)、こう存在感を示してくれると二幕の前半が引き締まります。台本通りではあるのだけれど「血の繋がらない娘」であるブリュンヒルデに対する邪険な扱いは一瞬「うわっ」と思いましたよ。ぶれないんですね、この舞台のフリッカは。
ジークリンデについてはこの作品中もっとも変化するキャラクターの一人です(最後に記事にならなかったオペラトークのレポートをつけますのでご参照いただきたいのです)。一幕ではまだ過酷な現在に囚われた存在として、二幕ではその過去に苛まれる存在として、三幕では絶望を超えて未来を志向する存在として、それぞれに印象的に現れるジークリンデは、幕ごとに歌い方も変えていたように思います。もし第一幕で「硬いかな?」と感じられた方には、「もしかして役柄としての表現が違うのかも」と私からは意見させていただきます~。

で、ブリュンヒルデについては本作の設定を確認しておきましょう、というのが私からの提案です。おそらくはティーンのお嬢さんの彼女はお父様のお気に入りとしてお姉さんぶっている。与えられた任務を疑わずに優秀にこなしてきた、そんな第二幕冒頭の彼女が変化していく姿が女性側のメインです。
この作品が終わった時点から見れば、彼女は神としての力を失いファイアウォール(おい)に守られて眠り続ける、という敗北エンドっぽい。でも”人間的”成長をもっともしてみせる存在でもあります、というか彼女が”条件闘争”を戦わなかったら、彼女はジークリンデの人生を繰り返すだけの存在に成り下がっていたはずです(しかもジークムントなしのそれだから、その生涯はより過酷なものになったことでしょう)。この作品での彼女は、よりマシな条件で生き延びることこそが、いわゆるトゥルーエンドだったのでしょう。とても喜べるものではないわけですが。

正直なことを書きます。多くの方が心動かされた第三幕の幕切れに至るヴォータンとブリュンヒルデの対話ですが、千葉には先程書いたとおり、ブリュンヒルデの”条件闘争”に見えてしまってなんともやりきれないものでした。彼女はこの作品では成長してなお「父のいい子」からは抜け出せない。「神々の黄昏」の最後、全曲の大詰めですべてを知ってようやく父の失敗ごと炎で消し去る、言いかえれば自分ごと世界を別の形に改める決断をする存在になるわけです。だからここには、”家庭の暴君に抵抗なく仕えてしまう優秀なお嬢さん”を見るような哀しさがあったように思うのです。それにあの別れの場面、過剰に思えるスキンシップは父娘の共依存的関係をも想像させるもの、もっと踏み込んでヴェルズングの兄妹に重ね合わせるように近親姦を想像させるものだった、のではないのか。お父さんいけないわ!(ヤケ気味)

で、ですね。このあたりの作品の持つリスキィな性格の見極めに、ゲッツ・フリードリヒの仕事の確かさを感じたんですね、千葉は。作品の全体を見据えて、今がどこなのか、登場人物たちがどこまで変わりうるのか、などなどを個別の作品の中に上手く落とし込むその仕事に。死体冒涜的な第三幕冒頭にしても「そもそも”ゾンビファイター”を大量に集めるヴォータンの姿勢がどうなのよ?」という糾弾に感じられたし、キャラクターの性格描写の端々に作品理解が示されていたように思います。
だからこの舞台、千葉はいわゆる読み替え演出だとは感じませんでした。もちろん「往年のオットー・シェンク時代のMETのようなものが台本通りだろ!」と言われたら、この舞台はそっちには入りませんけどね。でもちょっとした部分にしのばせた精神分析読み(第三幕でジークリンデが折れた剣を抱きしめて歌う場面はかなりストレートなそれでしょう)なども含めて、かなり作品からの読み取りが散りばめられたものであるように思います。この作品に限らずワーグナー、かなり長い対話の中でお話の根っこが動くような展開も多いですから、こういう仕込みを読みながら聴くのがいいんじゃないかなって思うんですよ。手数が多い演出で圧倒されるのもいいですけど、こういう削れる部分を削って作品の読み取りを率直に示してくる舞台と対話して見るのもいいと思うんですよね。

そういう気持ちを一言にすると、「千葉はこの舞台、けっこう好きですよ」ということになるわけであります。何よりこの舞台は後二作の上演が終わらないと”正しい”読みはできない状況です。だから今のうちに、作品との、舞台との対話をしながら最後の舞台の幕が下りるまで楽しむのがいいんじゃないかなって申し上げたいのです。まだこの大作は道半ば、単独でいろいろと判断するのも楽しいですけど、次は、その次はどうなるのかと考えつつ読みを試みるのが楽しいんじゃないかな、って思うのですね。記事にも書きましたが「ラインの黄金」は世界を布置した、そして「ヴァルキューレ」で企みが成功しない/生き物の自然として男性性は継続性を持たないことの悲哀の強調がなされた。では、女性キャストが二人しかいない「ジークフリート」はどうなるのか、すべてが精算される「神々の黄昏」はどういう読みに基づいた舞台になるのか。幸い「神々の黄昏」までは丸一年、じっくり考える時間はありますから、本を読んだり録音を聴いたりいろいろできるはずです。IMSLPからスコアをダウンロードすれば音楽については知れますしね!ばっちりだ!(何がですか?)

先々の話になるけれど「ジークフリート」は東京交響楽団、「神々の黄昏」は読売日本交響楽団と、飯守泰次郎マエストロの元違うオーケストラが演奏することも注目の新国立劇場の「指環」、資料センターも駆使して楽しむのがいいと思っておりますよ。レパートリーシステムの劇場ならさくさくと次が来るところですけど(ヴィーナーシュターツオーパーさまとか、すでにあるプロダクションで短期間にチクルスを上演してますからね)、スタジオーネシステムの劇場だからこその数年がかりのプロジェクト、じっくり楽しもうじゃないっすか。と、思っているわけです。時間はある、と思って千葉はこんな本を読み始めましたよ。



幸いなことにその昔、ファンタジー的な世界に憧れて「ニーベルンゲンの歌」を読んでいたおかげでよみやすい!助かった!(本気)…失礼いたしました。ワーグナーに関する本は多いし、「指環」のレコーディングも山のようにありますから、ぜひ自分が納得行く範囲で学習して立ち向かうことをオススメしますよ。
オススメしないのは、抜粋だけを繰り返し聴くことですかね…たとえば「騎行」だけをよく知っていて実演に接する「ヴァルキューレ」、けっこう辛いと思いますよ?上演時間が全四時間超えの作品のうち、濃く楽しめるのが10分に満たない部分だなんて(それすらも管弦楽版とは違うもの)、まったく鑑賞の助けにはなってくれないっす。いやほんと。千葉はだから抜粋コンピ盤とかダメなんすよねえ…

とか脱線できるのは、たぶん書きたいことを書き終わったからでしょう(笑)、この辺で記事のB面を終わるといたしましょう。これからでも行ける皆さん、ぜひ新国立劇場の舞台を見て、ご意見ご感想的に千葉が許せないときはご意見くださいませ、無駄話でもいたしましょう(笑)。では本日はこれにて、ごきげんよう。

2016年10月3日月曜日

ベルリオーズ大好き(個人の感想です)

こんにちは。千葉です。

前振り抜きで記事の紹介をまず。

◆2016年はゲーテの、「ファウスト」の年?

めちゃくちゃかんたんに書いてしまうならば「今年はほんとうに変わった年で、ゲーテによる音楽の大作がたくさん演奏されてるんですよ」という内容です。そしてそれは、この後に感想を書く公演の前フリでもありました。
が、コンサートの話の前に。この記事には本当に時間がかかったので(千葉ごときがゲーテについてまともに向き合ってしまったのが運の尽き、ですよ)、当初予定していたエンディングは公開版とは別のものなんです。その別バージョンふたつはこんな感じ。文体はもちろん、記事にしていたら違うものになったでしょう、ということで。

1)ここまで来たらどうか、どこかリストのファウスト交響曲を演奏してくれないか。ファウストとグレートヒェン、そしてメフィストフェレスの三人を軸にあの大作を音楽化した作品として類似しているし、同時代の相互に影響し合う仲の人々のアプローチだし。特にもメフィストフェレスの描写において明らかにベルリオーズの影響があるでしょ?そういう点から見て、もうちょっとベルリオーズは褒められてもいいと思うんだよね、”同時代、後世への影響”という観点からもう少しまともに評価してもいいと思うんっす。(とはいえ、この扱いの悪さは作曲家本人が自伝、回顧録で落ちぶれたエピソードを言い過ぎた弊害かもしれない)

2)今年は上演されないけれど、グノーの「ファウスト」の中でも印象的なアリアのひとつ、「金色の牡牛は」をブリュン・ターフェルが先日BSプレミアムで放送された欧州の夏のコンサートで歌いまくっていた。~から、記事で採用したハーディング&パリ管の話を入れて”海外でも「ファウスト」流行ってるのかな”的なオチに。宝石の歌よりイメージしやすいよね的な。

ま、どちらもブログならともかく(こうして書いてますからね)、記事としては使いにくいし、なにより先の話とは言えグノーの「ファウスト」が上演されることがきまった、ということの方が記事の方向にはあっていたでしょう。ということで、遠い未来を待たずに皆さまさっさと読みましょうね、「ファウスト」。長くて融通無碍な第二部に比べて「ファウストの刧罰」のもとになった第一部はむしろ読みやすいですから、お気軽にレッツチャレンジ。リンク先は青空文庫です。

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さて、そんなわけで東京交響楽団創立70周年記念演奏会の中でも、最も注目された公演の一つ、前の音楽監督ユベール・スダーンによるベルリオーズの劇的物語「ファウストの刧罰」を、25日にミューザ川崎シンフォニーホールで聴いた話をしましょう。

◆東京交響楽団 川崎定期演奏会第57回

2016年9月25日(日) 14:00開演 会場:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:ユベール・スダーン
合唱:東響コーラス、東京少年少女合唱隊
管弦楽:東京交響楽団

キャスト:

  ファウスト:マイケル・スパイアーズ
  メフィストフェレス:ミハイル・ペトレンコ
  ブランデル:北川辰彦
  マルグリート:ソフィー・コッシュ

”スダーンの時代があったから東響の今がある”という話は、記事でもここでも何度も書いています、もちろん濃淡ある扱いではありますが。スダーン&東響のモーツァルトを聴いて「きちんと転調が機能している!フレーズをきちんと区切っている!モーツァルトっていうか古典派はこれ大事!」と興奮したのは相当前のこと。響き、アーティキュレーションで「音楽をやるってこういうことだよね」と思わせてくれる日本のオーケストラ、という存在を知って、それ以来のファンなわけです。だってありがたいことじゃあないですか、近くに”音楽的に信用できるオーケストラ”がいてくれるんだから。聴きたい曲をコンサートに聴きに行けばいつでも大なり小なり満足して帰路につける、そんなオーケストラ。千葉の場合、”皆さまにもそういう存在ができますように”という思いも込めて国内オケを紹介させていただいているところ、割とあります。

で、先ほど紹介した記事の話でも書いたとおり、千葉はベルリオーズが大好きです。それも、有名すぎるし演奏されすぎている「幻想」よりも、「ロメオとジュリエット」とか「イタリアのハロルド」とか、なによりレクイエムとか。いいっすよ?って話をする機会が今回ようやく訪れた、とも思うので少し書きすぎた感があります(バランス的にね。書き足りないんですけどね)。記事の中で「ロメオ」を引き合いに出したのは、「協奏曲のはずだったのに、ヴィオラ独奏が終楽章で消えちゃう謎構成」の「ハロルド」よりは、「断章形式でありながら、もとの作品をある程度まで表現する」という点で「ファウスト」にかなり近いところにある、と考えるからです。「ロメオ」が離れ業すぎて、そしてこちらはオペラに近すぎてそういう見られ方をしてないんじゃないかな、と思いましたゆえ。
…誰ですか、「いやどっちの曲もよく知らないんで」なんて言ってるのは。もっと聴いてくださいベルリオーズ。面白いので。目指せ国内勢による「トロイ人」全曲舞台上演!(無理かな)

なお今回演奏されたこの作品、舞台上演する方々もいらっしゃいますけれど、基本的にオペラではない、と前々から思っています。オペラならもっと早くマルグリート出さなくちゃ。せめて第二場ではファウストと出会わないと。(ちなみに、この作品の改変を活かしてオペラとするならば。一幕でファウストとマルグリートが出会い、二幕でいちゃいちゃして三幕で原作でもイラッとくるファウストのウダウダぶりを描きフィナーレで地獄に落ちると構成する、って感じになり、ちょっと「ラ・ボエーム」っぽくなります。その辺の話はまた後ほど)

そんな作品を演奏したのが、楽譜にこだわり抜く高関健(東京シティフィルハーモニック管弦楽団)と、ジャン・フルネの影響を語るユベール・スダーンであったことの幸せたるや。いわゆる有名曲や、安心して身を任せられるスタイルの作品ではないのだから、演奏者への信頼なくして存分に味わうことができましょうや(反語)。今回は東京交響楽団の公演のみ聴いた千葉ですが、スコアを読み込む高関さんの演奏にはもっと触れなくてはと気が急く次第です(過去に群馬交響楽団で数回聴いていますけれど、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団さまとは未聴なのです)。反省。

さて、コンサートは昼公演、”あまり演奏されない曲なのに”なのか、”貴重な機会だから”なのかわからないけれどお客さんは多い、喜ばしい。いいことです、ほんと。ステージには16型のオーケストラ、その後方に独唱者の席が三つと少人数合唱席(後半まで使用しない、児童合唱の席でした)。そしてPブロックの中央部分と少々の両サイド部分に東響コーラスが陣取る格好。ベルリオーズのオーケストラは、後のワーグナーやマーラーと比べれば意外と普通の編成なのだけれど、この作品では二管編成から一人はみ出す四人のファゴットが特徴的(コンティヌオ的な仕事が多いから、他の木管の倍の人数がスコアに指定されているのです)。あと、クライマックスのためにテューバが二本になる第四部も、特殊といえば特殊ですね。でも古典派編成に低音管楽器の増強、そして多めの打楽器であの地獄落ちの音がするのか、などぼんやり考えるうち、演奏会は始まるのです。

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で、演奏を聴いてしみじみと感じたのは天晴ユベール・スダーン、であります。
ベルリオーズのオーケストレーションはこの曲でもいつものようにどこかおかしい、でもとても効果的です。ヴィオラとコールアングレに大きい役割を与えているのは”ダモーレ”の楽器だから、なのかな、などと考えたりもします(ベルリオーズは割と歴史的な楽器法を継承していますので、的外れではないかも)。ちなみにその独特さは、力で押さえつけるような演奏だと生きないように思います。いわゆる熱演、力演で大盛り上がりの幻想交響曲の演奏会はよくありますが(歴史的名盤も、そういうのが多いですね)、ベルリオーズの時代はベートーヴェンのすぐあと、ですからね。古典派的に形をきっちり作れる音楽家がやらないと、ベルリオーズの音楽はぐちゃぐちゃの、ただのヘンテコになる危険があります。ですが古典派に通暁するユベール・スダーンにそんなことがあるわけもなく、そして彼が鍛えた東京交響楽団が彼の指示に対応できないはずもなく。

千葉が事前に楽譜を流して読むだけでも流れを見失ってガクガクしてしまったレチタティーフと歌、そしてオーケストラの演奏の交錯も自然な流れで示されるのはさすがとしか言いようがない。”作品を知り尽くした”なんてのは批評のおきまりのタームだけれど、こういう演奏を前にしたら言って置かなければいけないことでもあるんすよ。彼のオペラは聴いたことがないけれど、機会があれば聴いてみたいです。そうですね「トロイ人」とかどうでしょう(しつこい)。ベルリオーズ・ジョーク抜きでは「フィデリオ」とか、すっごく高潔で品のある演奏になりそうに思いますが如何でしょう?

そしてこの演奏でやっと気がついたんだけど、スダーンの作る和声感はロングトーンの扱いに対する配慮が大きい、気がします。いわゆる管楽器の基本としてのロングトーンじゃなくて、長く音を保持することそのものに対する意識、と言い換えましょうか。旋律だけではなく、裏でさりげなく支える声部がいい仕事をしているから目の積んだ音楽になるし、転調で明瞭に”色”が変わるわけですよ、きっと。その響きに対する配慮、感覚に応えるうち今の東京交響楽団が作られたのだ、と言ってみてもいいかもしれない。お互いに聴きあうアンサンブル意識の高さ、取材させていただいたリハーサルの合間に団員のみなさんがコミュニケーションを取る姿からも感じておりましたが、これが根底に形作られたのが、スダーン時代だったのかな、などと思いました次第。
ここで、現監督とのキャラクタの違いを無理にでも言葉にするならば、前任者は形を作る、現監督は流れを作る、とでもなりましょうか。機会があれば検証してみたいのですが、果たして。二人がオーケストラにもたらすものはかなり性格の違う刺激なので、もうちょっとスダーンにも来てほしく思えました。来シーズンも一回の登場なのが実に惜しい。

千葉の場合、指揮者を褒めるということは、すなわちそれに応えたオーケストラを褒めていることでもあります。どちらかだけがいい/悪いということはありえない。この日の東京交響楽団の響きの、何よりも立体感を賞賛させていただきたいです。ミューザ川崎シンフォニーホールでこそ生きる、ちょっとしたバランスの変化などに伺える配慮が効果的でベルリオーズの天才を証明してくれていましたよ。素晴らしい。歌とハープだけの小編成から、合唱とトゥッティのオケによるパンデモニウムの圧倒的な轟音まで振幅も大きくて、これでこそベルリオーズの管弦楽ですよ。さすがです。

歌については褒める以外に言うことがなくて(笑)。”主役”を暗譜で、身振り付きの歌唱で熱演したスパイアーズ、初役ながら強い声に多彩な声色、ちょっとしたジェスチャーでトリックスターを最後まで演じきったペトレンコ、そして酔っぱらいチームの先陣を切った北川、もっと出番がほしくなったほどの存在感を示したコッシュ。お見事な独唱陣に加え、大編成の東響コーラス、小編成の東京少年少女合唱隊ともども堂々たる歌唱でドラマを描出しておりました。拍手。

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もう十分に長いんだけど、貴重な機会なので作品についてもいろいろと気がついたことを書いておきましょう。あまり展開せず、短めに……

●ベルリオーズはこの作品を、完全に恋愛悲劇で構成した

「ファウスト」の第一部は、悪魔との契約で若返っている基本設定がなければ「ラ・ボエーム」にもなりかねない、哀しい恋愛のお話です。で、この作品を通してみるとその性格をはっきりと打ち出しています。悪魔との契約は不明瞭のまま始まり、最後の最後、マルグリートを救うために契約するファウストは、原作のそれとは相当違う人です。
ここで現れるファウストはいわゆる喪男っぽい、人恋しさが彼の弱みで、そこにつけ込むのがメフィストフェレス。もしかすると若返り設定が無効なのかもしれない、とすればすべてを知り尽くすファウスト博士と若く愛に燃えるファウスト青年のギャップが少し気になる、ような気もしますね。原作ではお互いに万事を知り尽くした学者と悪魔の化かしあいの末にファウスト博士があのセリフを言うところに圧倒的なカタルシスがあるわけで、第一部がメインだとそうはできかねる、というのは理解できるのですが。
原作は、ある意味で博士&悪魔のバディもの、そして互いに出し抜こうと抜け目なく振る舞うコン・ゲームものの性格もあって、それ故に立体的な構成になっているわけだからこの改変は惜しいけど、さすがに尺の制約というものはあるわけですね。もしかすると「ファウストの刧罰」は、ゲーテが最初に著した原ファウストに近いものになっているのかもしれない。

●ファウスト博士のキャラ設定が微妙

既に書いた内容とも被りますが。「ファウストの劫罰」のファウストは若く、そしていわゆる喪男っぽい、人恋しさが彼の弱みで、そこにつけ込むのがメフィストフェレスです。彼らの契約はクライマックスの直前、マルグリートを救うための手立てを用意させるためのもの。不可能を可能にするための契約によっていわばいきなりに地面に穴が開いて地獄に落とされるかのような勢いのある展開です。これを可能にするために、もしかすると若返り設定が無効なのかもしれない。そうなった結果、すべてを知り尽くすファウスト博士と若く愛に燃えるファウスト青年のギャップが消えてしまうので、そうなるとマルグリートとの間で子をなしてしまう(その上で逃げる)のはちょっと若気の至りにすぎないかな…

●構成が少し見えたかも

冒頭で(ハンガリーで!)ファウストの独白に続いて聴こえる合唱が主の復活を喜ぶ合唱なのは、クライマックスの地獄落ちに対応している。ということは、もしかするともう少し照応させられるように作品を構成している可能性がある、ような気がする。これはただの思いつき。

●「劫罰」はこの時点の集大成

過去の作品でも印象に残るベルリオーズ音楽の特徴を随所で感じることができる。このメンバーで聴きたいです、レクイエムとか。

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ああ、また長くなってしまった。反省はしていませんが(おい)、今回の記事はここまで。ではまた。

2016年9月27日火曜日

読みました:岡田暁生「メロドラマ・オペラのヒロインたち」

こんにちは。千葉です。

さて簡単に読み終わった本のご紹介。

◆「メロドラマ・オペラのヒロインたち」 岡田暁生

「オペラの運命」「西洋音楽史」など、クラシック界では異例のベストセラーを放ってきた(中略)著者の最新作(リンク先より引用。そうだったのか)、なかなかよかったです。

”そもそもオペラはいわゆるクラシック音楽より芸能に近い”とする著者が、15のオペラと3の映画を、主にヒロインについての語りで作品を読み解く、月刊誌「本の窓」の連載記事をまとめたものです。作品を一覧で書き出せばこんな感じ。

ヴィンチェンツォ・ベッリーニ 『ノルマ』
ジュゼッペ・ヴェルディ 『ラ・トラヴィアータ』
ジュゼッペ・ヴェルディ 『イル・トロヴァトーレ』
ジュゼッペ・ヴェルディ 『アイーダ』
リヒャルト・ワーグナー 『ニーベルングの指環』
リヒャルト・ワーグナー 『トリスタンとイゾルデ』
ジャック・オッフェンバッハ 『ホフマン物語』
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー 『エフゲニー・オネーギン』
ヨハン・シュトラウス2世 喜歌劇『こうもり』
ジャコモ・プッチーニ 『トスカ』
ジャコモ・プッチーニ 『トゥーランドット』
W.A.モーツァルト 『コジ・ファン・トゥッテ』
リヒャルト・シュトラウス 『ばらの騎士』
リヒャルト・シュトラウス 『アラベラ』
エーリッヒ・ヴォルフガング・コルンコルド 『死の都』
デヴィッド・リーン 『逢びき』
ヴィクター・フレミング 『風と共に去りぬ』
フランシス・F・コッポラ 『ゴッドファーザー』

19世紀の作品が多いのは本書のテーマであるメロドラマの定義からも自然なことですが、その点に引っかかられたあなたは本書を読むべきです。「どうして映画がオペラと並べて論じられているの?」と感じたあなたにも。
リンク先でも端折った説明は読めますが、第一話で詳しく定義の検討をしていますので時間のない方はまずそこだけでも立ち読みされてもいいかもです。

簡単に、と言ってしまった以上ここでやめますね(笑)、読んで損はしませんよ。ということで。ではまた。

2016年9月7日水曜日

ロレンツォ・ヴィオッティ見事なり

こんにちは。千葉です。

いろいろと他の作業や仕事の兼ね合いもあってベートーヴェンが聴きたい!それも”今の”やつを!という状態に陥り、1990年生まれの若いマエストロの演奏会に行ったんだ。まだ彼が指揮する公演があるので、これは早めに記事にしておきますね。

今回東京交響楽団に登場したロレンツォ・ヴィオッティは早逝した父の跡を継いだ、ということもないのだろうけれど若干26歳にしてポストに就任、各地でオペラを指揮している注目の指揮者、つい先日もヴェルビエ・フェスティヴァルに登場している。その動画はmediciで配信されていたので気になって観てみた。
で、その感想はといえば「自分がその年齢だった頃にどんなだったか、なんて考えたら首でもくくらないといけないレヴェルで堂々とした指揮者ぶり」というもの、さてでは実演は如何に?という、ちょっとしたお手並み拝見気分がなくはない。というか、今年の東京交響楽団ではそういう目利き気分が味わえる、有望な若手の登場が多かったっすね。(さりげなく来シーズンの話に誘導←と書くことで台なし)

◆東京交響楽団 東京オペラシティシリーズ第93回

2016年9月3日(土) 14時開演 東京オペラシティ コンサートホール

指揮:ロレンツォ・ヴィオッティ
管弦楽:東京交響楽団

曲目

ベートーヴェン:交響曲第四番 変ロ長調 Op.60
R.シュトラウス:「薔薇の騎士」組曲
ラヴェル:ラ・ヴァルス

東京交響楽団とは二回目の共演となったヴィオッティ。前回2014年はウルバンスキの代役として、すでにあったプログラムを見事に演奏してみせたけれど、今回は自身で編んだプログラムでの再登場。それはいうなれば”名刺代わり”のプログラムと見ていいのだろうから、通ぶって存分に値踏みをさせていただくのが、厭らしいけどある意味正しい態度でありましょうよ。逃げも隠れもしない、彼自信の渾身のプログラムでの登場、ということで(前回の代役についてはその対応力を褒めるべきものであり、”借り物のプログラム”だとけなしているわけではないことはいちおう為念)。

スイスに生まれウィーンとワイマールで学び、オペラにシンフォニーに活躍する若きイタリアとフランスの血を引くマエストロ、というキャリアをそのままに反映した選曲、とも言えるのかな※、などと思いつつ個人的なお目当ては最初に書いたとおりベートーヴェン。

※公演の後、東京交響楽団より以下のTweetでマエストロの意向が知れたわけである。なるほど、師匠譲りの入魂のプログラムだったのですね。千葉の読みとも矛盾はしないとは思いますが、実にいい話ですねこれ。



さて、お目当てのベートーヴェンは弦が12型、ティンパニがケトルドラムでトランペットはロータリーと、アーノンクール風から20世紀風までこなせてしまう東京交響楽団だからこそできる柔軟な対応ですね。だから思うわけです、彼の演奏についてもピリオド奏法どうこういうよりは、表現のスタイルとして「ヴィブラート控えめが基本、必要に応じて使ったり使わなかったり」がもはや現代スタンダードなのではないかしら?

さて演奏についてですが。第一楽章はすこし硬かった、ように思います。このホールだと時々ある「弦が壁になって管がうまく伸びてこない」時間帯もあったけれど、楽章の途中からはこの日の会場の響きにもなじんだか、実にいい響きが聴かれるように。「これはモーツァルトでもハイドンでもなく、ベートーヴェンですよ」と言わんばかりの低弦の存在感はいい目配りです、ヴィオッティ(偉そうに)。
その一楽章を高い解像度のいい響きで駆け抜けて第二楽章からは盤石、指揮者の意図も伝わったものと思う。フレーズの伸縮も自在、重心移動が巧みなので場面はことさらに力まなくても動いていくのが実に巧みで。
第三楽章のスケルツォ、速めのテンポで主部のアウフタクトを少し長めに取らせて音楽に引っかかりを作って単調な煽りだけの楽章にしない。テンポもそう落とさないけれど、トリオは角を落とした音楽の流れが美しいのなんの。そのままフィナーレにはアタッカで突入、その結果、あたかもこの交響曲がハイドンやモーツァルトのオペラに見られる「複数の場面が連続するフィナーレ」のように思えてくる。なにもアタッカで別々の場面が繋げられたから、という理由だけでそう感じたのではない、各声部が饒舌に語る演奏は恣意的なデフォルメなどなくとも十分に刺激的、劇的なものでした。お見事。

快速で駆け抜けるこの交響曲には、ついちょっとカルロス・クライバーがどうのこうのと言いたくなってしまう業ある世代の千葉だけど、彼のベートーヴェンについて古楽云々あまり言わなくていいのと同じ、もうことさらにそう言い立てる必要もないと思う。もちろん、カルロスの指揮に魅了されて指揮者になった元ウィーン・フィルの人たちについては、一言あってもいいかも、ですけど(笑)。
ということで、凝縮された古典派オペラのようにも感じられた刺激的なベートーヴェンに満足したわけです。なにより第四番、なかなか聴けないからね!

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後半はまず作曲者編曲による「薔薇の騎士」組曲。編成は16型でティンパニも当然モダン楽器、そして大量の打楽器。オペラの場合、打楽器が大量に必要でその上兼ね役も難しいから6人もいましたぜ(笑)。弦の人数が減るにせよ、ピットにどうやって入れているものかといつも思いますねオペラの編成がステージに載せられると。
で、演奏ですが、いやあ、雄弁ですよ劇的ですよ。先日のフォルクスオーパーの舞台を経て、「もしかしてこのオペラはオペレッタをそのままに”描写”した作品ではないか」とか余計なことを考えていたし、「この組曲はなんていうかちょっとただの接続曲で愉しみ難いよね」とか感じたりもする、この組曲に文句の多い千葉ですが、この日の演奏は存分に愉しみました。振り向きざまに始めた冒頭のホルンから、最後のワルツの狂騒まで。若いけど勢い任せにしない、でもクレヴァー過ぎて大人しくなっちゃうこともない。全幕を意識して指揮しているのがよくわかる場面描写に感心しました。ベートーヴェンではより構成、形式を示したヴィオッティだけれど、ここでは繊細な感情表現も実に見事で。素晴らしい若者じゃないか彼は!(洋画っぽい言い方)

…いやとても良かったし楽しんだけど、正直なところ「後生だから全曲聴かせてくれよ」ですよ。ほんと、全曲やってくださいヴィオッティ&東響で、新国で。

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ここまでで、短い時間ながらコンサートが終わってしまいそうな盛り上がりを見せたけれど、最後にはまだラ・ヴァルスが待っているのです。楽しいオペレッタの描写から一転、”失われたウィンナ・ワルツの幻想”でコンサートは終わるわけですね。曲間で捌けるメンバーが少なくて(E♭クラとチェレスタだけじゃないかな)、今さらながら20世紀初頭のフランス音楽のぜいたく感に驚きますが、まあそれがWWI前のベル・エポックなんだよね、とかなんとか。

東京交響楽団のきっちり感、ラヴェルに合うよねって前から個人的には思っていまして。その昔、スダーン時代に聴いた「ダフニスとクロエ」第二組曲がなかなかよかったように記憶しているのだけれど、いつの公演だったかな…(こういうど忘れ&探しだせずを回避するためにものを書いているところ、自分にはあります)
そしてヴィオッティも若いのに(若いから、かな)、きっちりと書かれてある音符を有機的に音にしていくからもう楽しいのなんの。楽しすぎて「俺は過去にこの曲ライヴで聴いたことあったかな…」と何度も思うほどに新鮮な音の連続でしたわよ。バレエ音楽として構想されながらしかし明確なストーリーではなくイメージで、それも「ウィンナワルツのカリカチュア」として書かれているこの作品を、不明瞭な混沌から過剰な高揚へ、そして崩壊へときっちり導いてくれたのは見事すぎる。最後の不協和音で終わるところも拍手でマスクされないというお客さまの協力もあって、奇跡的な(笑)コンサートはおしまい。特にも最後の五音、さすがにお客さんがこの曲を知らないってことはなさそうだけど、あたかも空中から巨大な物体が落下するさまをスローモーションで見ているかのようで息を呑んだ方も多かったのではないかなと。

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ということでですね、いや良いコンサートでございましたよ。1990年生まれの若きマエストロ、そりゃあ話題にもなるし各地のオーケストラが声をかけまくることでしょうよ。名前が示すとおり血筋としてはイタリア系なのかもしれないけれど、その音楽はお国柄どうこうではなくかなり現在の潮流を正しく咀嚼したもので、その軽やかさと目配りの良さは将来に期待するしかないものです。
2014年の初登場、そして今回の次はまだわからないけれど(とりあえず翌シーズンは登場しません→しつこく誘導する千葉である)、きっとまた東京交響楽団に来てくれるはず。っていうか来てくださいね。いえ伏してお願いします(卑屈)。その時はそうねえ、二つくらいのプログラムでマーラーも入ってると嬉しいなあ(妄想)。

それはさておき、最近東響にいい若手が来るとオケのファンの皆さんが一斉に「今すぐ首席客演指揮者にしてつなぎとめるんだ!」と言い出すのがなかなか楽しいのですが、こればっかりはスケジュールですからねえ…ダニエル君もよかったしロレンツォ君も見事だった。これからも継続的に来てくれる、そしてお互いにプラスになりうるいい指揮者と契約できたらいいよね、って東響の一ファンとしての千葉は思う次第でありました。

なお、ロレンツォ・ヴィオッティは9日には大阪交響楽団に客演します(フィルではないっす要注意っす)。長富彩とのリスト、そしてメインがプロコフィエフの第五番!聴きたい!行けない千葉の代わりに関西エリアの皆さん、ぜひお聴きになってガンガンレポートしてくださいね、想像してニヤニヤしますんで(笑)。

2016年8月5日金曜日

ポポフとショスタコーヴィチの続き

こんにちは。千葉です。

さて、先日の続きを書いてしまいましょう。そうでないと日本初演の感想も書けませんし。最近の千葉は意外と上坂すみれ嬢が気に入っているようだ、というボケ含みの内容になりそうです(笑)。

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(承前)

ガブリイル・ポポフの交響曲を東京交響楽団が日本初演するめぐり合わせには、また別の感慨がある。創立70周年を迎えたこのオーケストラは、かつて上田仁時代に数多くのショスタコーヴィチ、プロコフィエフ作品の日本初演を行ってきたことでも知られている。そんな東京交響楽団がポポフの封印された交響曲を日本で最初に世に示すのは、ある意味”正しい”成り行きと言えるだろう。
もちろん指揮者は上田仁ではなく飯森範親だし、往時のメンバーが居るわけでもない。しかし当時から今に至るも東京交響楽団の進取の気性は今も健在なのだ、そう感じられることが喜ばしい。シュトラウスの交響詩が「メンゲルベルクと彼の優れたコンセルトヘボウ管弦楽団に」捧げられていることが既に歴史のいちページであるように、こうした出来事、めぐりあいの蓄積がオーケストラの歴史を作る。そして我々音楽ファンもまた、歴史の証人として経験を積むわけである。

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そしてポポフの友人にして今年生誕110年の、そして没後41年のドミトリー・ショスタコーヴィチの命日(8月9日)にはプラウダ批判からの名誉回復を賭けて作曲した交響曲第五番が、絶賛開催中のフェスタサマーミューザKAWASAKI2016にて、昭和音楽大学管弦楽団によって演奏される。真偽定かならぬ逸話として「ピアニッシモで静かに終わっていてもこんなに評価されたかな」と作曲者がうそぶいたという「革命」の愛称で知られるこの作品は、果たして”ベートーヴェン的古典にも通じる作品”なのか、それとも第四番と本質的に変わらない、ショスタコーヴィチらしい交響曲なのか。音楽はすべてを語っているはずだ、だからまずはその音に耳を澄ませようではないか。

かつて同じ道を歩んだ二人が道を違えざるを得なかった、まさにその時期を象徴する二作が続けざまに演奏されるこの夏は、ひときわソヴィエト音楽が熱い。

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終わった公演のための記事として構想していたものだから、ここでは膨らませるのはやめました。ご容赦のほど。

ショスタコーヴィチの交響曲を読むために必要なキーワードは、引用やプロット、標題も大事なのですが、「公/私」という視点が求められるのだ、という話を最近どこかで読みました(どこだったかな…)。
交響曲は公のもの、だから当局に批判もされるし場合によっては潰される。対して室内楽や声楽曲はそこまでの縛りがなく、たとえばショスタコーヴィチなら弦楽四重奏曲や歌曲でそうとう攻撃的な姿勢を示している。何も「ラヨーク」まで引き合いに出さずとも、彼の室内楽や歌曲は危ない橋をわたっていることは少なくともショスタコーヴィチが好きな方はご存知でしょう。知らなかったとは言ってほしくない(追悼モード)。

その視点で考えれば、交響曲第五番は革命20周年を記念する、国家の歴史に刻まれるべき社会が認める傑作、ということにまずはなった。その後、真偽怪しいことで有名な「ショスタコーヴィチの証言」で「すべての交響曲は墓標である」とされてその認識で解釈・受容されて。
しかしこの作品、第一楽章における「カルメン」の引用などからショスタコーヴィチの私的領域のドラマを盛り込まれた作品でもある、ということがわかってきています。第一〇番が自らの署名であるDSCH音型(D-Es-C-H)からそういった意味合いがあることは知られていましたが、第五番もそういう性格を併せ持っていました、というさらなる展開が待っていようとは、「革命」とLPレコードのジャケットに大書した往時の制作サイドはどう思われることやら(冗談です)。

ショスタコーヴィチはプラウダ批判に抗うように即座に交響曲第四番、第五番を書いた、しかもそこには多重底の仕掛けがあった。ポポフは交響曲第一番の演奏禁止から立ち直って次の交響曲を書くまで10年近い時間が必要だった、しかも完成した第二番は映画音楽による当局が喜ぶ作品だった。この分かれた道の残酷さに何を思うか。そんな暑苦しい夏もまた一興ですよみなさん!(いつもの調子に戻った)

ちなみにですね、ポポフの交響曲第一番(昨日からポポーフ表記がメジャーになりそうな勢いですが)ですが、今月末にはオーケストラ・ダヴァーイがアマチュア日本初演します(もしかすると企画そのものはこっちが先だったかも、くらいの微妙なタイミング。昨日の会場にたくさんいらしていたようです、曲をよく知っているお客さんが多いったらない)。飯森範親&東響の演奏を聴いておかわりされたい方も、聴き逃して残念極まりないと思われる方も如何でしょう。メインはDSCH音型が乱舞する第一〇番ですよ。

さらに紹介しそこねたのでここにサクッと書きますが、PMFオーケストラの東京公演が異常に長いプログラムのメインでショスタコーヴィチの交響曲第八番を演奏するんですよね、行けないけど。

とか、これからも久しぶりにショスタコーヴィチの話ができるはずだ、ですよ。まずは体調を戻していろいろ仕込もうと思う次第ですよ。では本日はひとまずこれで。ごきげんよう。

2016年8月3日水曜日

今、この時に鳴り響く問題作

こんにちは。千葉です。

え~、酷い夏バテです。久しぶりに関東の夏を全身で逃げようもなく経験して、あっさりと負けています。盛夏はこれからというのに、千葉は生き延びることができるか。この調子では刻の涙を見て木星に行って終わってしまうのではないか(なぜガンダムしばり)。

そんな具合であるがゆえ、とある記事が完成できず寄稿できませんでした。いろいろすみません。

でもほとんどできているので(というか、実は記事二本分の内容であるような気がする)、こちらにお出しします。明日日本初演、ガブリイル・ポポフの交響曲第一番の話です。指揮は飯森範親、オーケストラは東京交響楽団です。詳しくはリンク先で。以下本文。

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ガブリイル・ポポフ(1904-1972)が数年をかけて完成した作品、交響曲第一番(1934)がついに飯森範親の指揮の元、東京交響楽団によって日本初演される。と紹介すると「80年も前に作られた、もはや”現代音楽”とも言えない昔の作品なのに、なぜ今ごろになって日本初演なのか」と疑問に感じられるだろうか。だがそう問われれば「この作品はそれだけの”問題作”なのだ」と答える他ない。

少し歴史の話をしよう。第一次ロシア革命(1905)前後から、革命と並走するように勃興した「ロシア・アヴァンギャルド」と呼ばれる一連の芸術運動があった。イタリアの未来派とも共通する過去の伝統と隔絶する思潮を持ちながらも、ロシアでは革命との”協働”によってその成果は独特なものとなり、一目見れば忘れようもないほどのインパクトを残すポスターなどは現在でも模倣やパロディとして取り上げられ、目に見えて影響を与えている。美術、文学、建築など幾つものジャンルにおける芸術運動の流れの中に、もちろん音楽もあった。アレクサンドル・スクリャービン(1872-1915)から、1930年代のドミトリー・ショスタコーヴィチやガブリイル・ポポフの若き日々に至る、短いとは言えない期間にロシア・ソヴィエト独自の新しい音楽が作られている。例を挙げるなら短い作品だがアレクサンドル・モソロフの「鉄工場」(1926)が示す感情を排した描写によるストレートな未来主義、技術礼賛は音楽におけるひとつの典型といえるだろう。


(このポスターはアレクサンドル・ロトチェンコの有名な作品(1924)だが、数多くのパロディでご存じの方も多いことだろう。余談だが、筆者はこのポスターをデザイン化したTシャツを持っている。着ている時に人に見られるような気がする事が多いので「さすがロトチェンコ、人目を引きやがる」などと思っていたけれど、もしかして人々はフランツ・フェルディナンドのジャケットだと思って見ているのではないだろうか。まさか「たのしいプロパガンダ」ではあるまいな。さて。)

そんな挑戦的な試みの時代を終わらせたのが1930年代のスターリンによる大粛清であり、こと音楽はショスタコーヴィチを名指した「プラウダ批判」(1936年)でとどめを刺される。若き天才がその才能を存分に発揮したオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」は新作ながら大ヒットする。各地のオペラハウスがこぞって取り上げるロングランとなったばかりに問題作がスターリンの目に留まることになるのだから皮肉なものだ。この作品を名指しして「音楽ではなく荒唐無稽」と批判され、作曲中の交響曲第四番は完成にこぎつけるも初演を公演直前に撤回、その後25年放置されることになる。

そしてショスタコーヴィチ生涯の友人、ポポフの交響曲第一番はそのわずか2年前に作曲されて、当局から演奏を禁止されていた、ある意味先駆的な問題作なのだ。いや、演奏禁止自体はほどなく解除されるのだが、当局に目をつけられていたショスタコーヴィチのお気に入りの作品で、なにより一度は当局が正式に否定した作品に手を出す者もなく、冷戦の終わりを目前にした1989年にゲンナジー・プロヴァトロフの指揮、モスクワ国立交響楽団によって世界初録音が行われて、ようやく”封印”は解かれることになる。2004年にはレオン・ボッツスタイン指揮ロンドン交響楽団によるレコーディングによってその真価が広く世界に知られた、”あの”ショスタコーヴィチの第四番に先行した問題作がついに日本でも演奏されるわけである。

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ガブリイル・ポポフ(1904-1976)はショスタコーヴィチより2年年長で3年ほど先に亡くなっている、まったくの同時代人で生涯の同僚、友人だった。六つの交響曲(第七番は未完)他、多様なジャンルで多くの作品を残したポポフだが、上記の事情もあって交響曲第一番の前後で大きく作風が変わっている。ヒンデミットやシェーンベルクなどのモダンな作品に大きく影響されて奔放な活躍をしていた初期の作風は否定されたため、当局が求める社会主義リアリズムへと大きく創作の傾向を変えたのだ。せめて、第一番に続いて構想されていたという”第二”の交響曲※が作られていれば、これほど忘れられることもなかっただろうけれど、当時のソヴィエト社会が求める作品を作るようになったポポフは後世の評価としては残念ながら「ソヴィエトの凡百の作曲家のひとり」として生涯を終えている。

※実際に書かれた第二番(1943)は映画音楽を元にした作品で、第一番とは似たところのない穏当な、古典的ですらある曲調となっている

それでも彼の名を音楽史に残し、彼自身の転機となった交響曲第一番は、四管編成に大量の打楽器を用いた大オーケストラのための意欲的な作品だ。三楽章の交響曲であることも含め、直接にショスタコーヴィチの交響曲第四番の先駆的作品といえる。フレクサトーン特有の音型を管弦楽が模したようなフレーズや、大編成の管弦楽の咆哮、そして見逃せないフィナーレにおけるスクリャービンの濃厚な影響など、一度聴いたら忘れようもない強い印象を残す交響曲を作曲していたこの時、あきらかにポポフはショスタコーヴィチに負けない才能だった。そのことは今度の日本初演で多くの音楽ファンが認識することだろう。

生涯の友人同士が触発し合った作品だというだけではなく、ポポフの交響曲第一番とショスタコーヴィチの交響曲第四番には共通点がある。この二つの作品は、当時ナチスを避けてソヴィエトに亡命していた指揮者、フリッツ・シュティードリーにより演奏されているのだ(もっとも、ショスタコーヴィチの作品は上記のとおり最終リハーサルの後に”初演”は中止され、1961年にようやくキリル・コンドラシンによって初演されるのだが)。

ウィーンでグスタフ・マーラーに見出されてドイツ各地の歌劇場で活躍、後年メトロポリタン歌劇場と残した録音が知られるマエストロは、1934年からレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めている。ショスタコーヴィチの交響曲第四番の初演撤回について、長らく”シュティードリーがこの複雑な作品をこなせなかった””乗り気でなかった”などと批判されてきたものだが、既にショスタコーヴィチを刺激したポポフ作品を初演し、後年にはシェーンベルクの室内交響曲第二番を初演した彼が「マーラー的な作品を理解できなかった」というのはさすがに失礼ではないか?と筆者は長年感じている。むしろポポフの交響曲第一番をめぐるトラブルを経験していた彼が、才能ある作曲家が当局に挑みかかるような作品を創りあげてしまったことを誰よりも理解したがゆえに、演奏後のトラブルを心配して初演の中止を進言した、とは考えられないだろうか?…もちろんこれは想像でしかない、「正解」は歴史の闇の中なのだけれど。

政府が名指しでショスタコーヴィチを責め、交響曲第四番を作曲しながら初演しなかったその翌年である1937年にシュティードリーはソヴィエトを離れ、彼が担っていたレニングラード・フィルの常任指揮者後任には当時まだ30代前半の若きエフゲニー・ムラヴィンスキーが着任、ショスタコーヴィチの交響曲第五番を初演して長きに渡る指揮者と作曲家の交流が始まる。ポポフの交響曲第一番はそんな時代の音楽だ。長く封印されたその音楽は、80年の時を超えてようやく日本でも鳴り響く。(本文終わり)

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これにですね、もう一つか二つのショスタコーヴィチのコンサートを組合せた記事にすることを考えていたんですが、ちょっとその構想の時点で夏バテだったようです。自覚症状がないって怖いですわ。
その続きはそう長くないもののはずなので、あとでちょろっと書きますね。ではまた。

※追記:続き、ちょっとだけ書きました。はじめからB面寄りのテイストですみません(笑)