2016年8月5日金曜日

ポポフとショスタコーヴィチの続き

こんにちは。千葉です。

さて、先日の続きを書いてしまいましょう。そうでないと日本初演の感想も書けませんし。最近の千葉は意外と上坂すみれ嬢が気に入っているようだ、というボケ含みの内容になりそうです(笑)。

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(承前)

ガブリイル・ポポフの交響曲を東京交響楽団が日本初演するめぐり合わせには、また別の感慨がある。創立70周年を迎えたこのオーケストラは、かつて上田仁時代に数多くのショスタコーヴィチ、プロコフィエフ作品の日本初演を行ってきたことでも知られている。そんな東京交響楽団がポポフの封印された交響曲を日本で最初に世に示すのは、ある意味”正しい”成り行きと言えるだろう。
もちろん指揮者は上田仁ではなく飯森範親だし、往時のメンバーが居るわけでもない。しかし当時から今に至るも東京交響楽団の進取の気性は今も健在なのだ、そう感じられることが喜ばしい。シュトラウスの交響詩が「メンゲルベルクと彼の優れたコンセルトヘボウ管弦楽団に」捧げられていることが既に歴史のいちページであるように、こうした出来事、めぐりあいの蓄積がオーケストラの歴史を作る。そして我々音楽ファンもまた、歴史の証人として経験を積むわけである。

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そしてポポフの友人にして今年生誕110年の、そして没後41年のドミトリー・ショスタコーヴィチの命日(8月9日)にはプラウダ批判からの名誉回復を賭けて作曲した交響曲第五番が、絶賛開催中のフェスタサマーミューザKAWASAKI2016にて、昭和音楽大学管弦楽団によって演奏される。真偽定かならぬ逸話として「ピアニッシモで静かに終わっていてもこんなに評価されたかな」と作曲者がうそぶいたという「革命」の愛称で知られるこの作品は、果たして”ベートーヴェン的古典にも通じる作品”なのか、それとも第四番と本質的に変わらない、ショスタコーヴィチらしい交響曲なのか。音楽はすべてを語っているはずだ、だからまずはその音に耳を澄ませようではないか。

かつて同じ道を歩んだ二人が道を違えざるを得なかった、まさにその時期を象徴する二作が続けざまに演奏されるこの夏は、ひときわソヴィエト音楽が熱い。

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終わった公演のための記事として構想していたものだから、ここでは膨らませるのはやめました。ご容赦のほど。

ショスタコーヴィチの交響曲を読むために必要なキーワードは、引用やプロット、標題も大事なのですが、「公/私」という視点が求められるのだ、という話を最近どこかで読みました(どこだったかな…)。
交響曲は公のもの、だから当局に批判もされるし場合によっては潰される。対して室内楽や声楽曲はそこまでの縛りがなく、たとえばショスタコーヴィチなら弦楽四重奏曲や歌曲でそうとう攻撃的な姿勢を示している。何も「ラヨーク」まで引き合いに出さずとも、彼の室内楽や歌曲は危ない橋をわたっていることは少なくともショスタコーヴィチが好きな方はご存知でしょう。知らなかったとは言ってほしくない(追悼モード)。

その視点で考えれば、交響曲第五番は革命20周年を記念する、国家の歴史に刻まれるべき社会が認める傑作、ということにまずはなった。その後、真偽怪しいことで有名な「ショスタコーヴィチの証言」で「すべての交響曲は墓標である」とされてその認識で解釈・受容されて。
しかしこの作品、第一楽章における「カルメン」の引用などからショスタコーヴィチの私的領域のドラマを盛り込まれた作品でもある、ということがわかってきています。第一〇番が自らの署名であるDSCH音型(D-Es-C-H)からそういった意味合いがあることは知られていましたが、第五番もそういう性格を併せ持っていました、というさらなる展開が待っていようとは、「革命」とLPレコードのジャケットに大書した往時の制作サイドはどう思われることやら(冗談です)。

ショスタコーヴィチはプラウダ批判に抗うように即座に交響曲第四番、第五番を書いた、しかもそこには多重底の仕掛けがあった。ポポフは交響曲第一番の演奏禁止から立ち直って次の交響曲を書くまで10年近い時間が必要だった、しかも完成した第二番は映画音楽による当局が喜ぶ作品だった。この分かれた道の残酷さに何を思うか。そんな暑苦しい夏もまた一興ですよみなさん!(いつもの調子に戻った)

ちなみにですね、ポポフの交響曲第一番(昨日からポポーフ表記がメジャーになりそうな勢いですが)ですが、今月末にはオーケストラ・ダヴァーイがアマチュア日本初演します(もしかすると企画そのものはこっちが先だったかも、くらいの微妙なタイミング。昨日の会場にたくさんいらしていたようです、曲をよく知っているお客さんが多いったらない)。飯森範親&東響の演奏を聴いておかわりされたい方も、聴き逃して残念極まりないと思われる方も如何でしょう。メインはDSCH音型が乱舞する第一〇番ですよ。

さらに紹介しそこねたのでここにサクッと書きますが、PMFオーケストラの東京公演が異常に長いプログラムのメインでショスタコーヴィチの交響曲第八番を演奏するんですよね、行けないけど。

とか、これからも久しぶりにショスタコーヴィチの話ができるはずだ、ですよ。まずは体調を戻していろいろ仕込もうと思う次第ですよ。では本日はひとまずこれで。ごきげんよう。

2016年8月3日水曜日

今、この時に鳴り響く問題作

こんにちは。千葉です。

え~、酷い夏バテです。久しぶりに関東の夏を全身で逃げようもなく経験して、あっさりと負けています。盛夏はこれからというのに、千葉は生き延びることができるか。この調子では刻の涙を見て木星に行って終わってしまうのではないか(なぜガンダムしばり)。

そんな具合であるがゆえ、とある記事が完成できず寄稿できませんでした。いろいろすみません。

でもほとんどできているので(というか、実は記事二本分の内容であるような気がする)、こちらにお出しします。明日日本初演、ガブリイル・ポポフの交響曲第一番の話です。指揮は飯森範親、オーケストラは東京交響楽団です。詳しくはリンク先で。以下本文。

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ガブリイル・ポポフ(1904-1972)が数年をかけて完成した作品、交響曲第一番(1934)がついに飯森範親の指揮の元、東京交響楽団によって日本初演される。と紹介すると「80年も前に作られた、もはや”現代音楽”とも言えない昔の作品なのに、なぜ今ごろになって日本初演なのか」と疑問に感じられるだろうか。だがそう問われれば「この作品はそれだけの”問題作”なのだ」と答える他ない。

少し歴史の話をしよう。第一次ロシア革命(1905)前後から、革命と並走するように勃興した「ロシア・アヴァンギャルド」と呼ばれる一連の芸術運動があった。イタリアの未来派とも共通する過去の伝統と隔絶する思潮を持ちながらも、ロシアでは革命との”協働”によってその成果は独特なものとなり、一目見れば忘れようもないほどのインパクトを残すポスターなどは現在でも模倣やパロディとして取り上げられ、目に見えて影響を与えている。美術、文学、建築など幾つものジャンルにおける芸術運動の流れの中に、もちろん音楽もあった。アレクサンドル・スクリャービン(1872-1915)から、1930年代のドミトリー・ショスタコーヴィチやガブリイル・ポポフの若き日々に至る、短いとは言えない期間にロシア・ソヴィエト独自の新しい音楽が作られている。例を挙げるなら短い作品だがアレクサンドル・モソロフの「鉄工場」(1926)が示す感情を排した描写によるストレートな未来主義、技術礼賛は音楽におけるひとつの典型といえるだろう。


(このポスターはアレクサンドル・ロトチェンコの有名な作品(1924)だが、数多くのパロディでご存じの方も多いことだろう。余談だが、筆者はこのポスターをデザイン化したTシャツを持っている。着ている時に人に見られるような気がする事が多いので「さすがロトチェンコ、人目を引きやがる」などと思っていたけれど、もしかして人々はフランツ・フェルディナンドのジャケットだと思って見ているのではないだろうか。まさか「たのしいプロパガンダ」ではあるまいな。さて。)

そんな挑戦的な試みの時代を終わらせたのが1930年代のスターリンによる大粛清であり、こと音楽はショスタコーヴィチを名指した「プラウダ批判」(1936年)でとどめを刺される。若き天才がその才能を存分に発揮したオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」は新作ながら大ヒットする。各地のオペラハウスがこぞって取り上げるロングランとなったばかりに問題作がスターリンの目に留まることになるのだから皮肉なものだ。この作品を名指しして「音楽ではなく荒唐無稽」と批判され、作曲中の交響曲第四番は完成にこぎつけるも初演を公演直前に撤回、その後25年放置されることになる。

そしてショスタコーヴィチ生涯の友人、ポポフの交響曲第一番はそのわずか2年前に作曲されて、当局から演奏を禁止されていた、ある意味先駆的な問題作なのだ。いや、演奏禁止自体はほどなく解除されるのだが、当局に目をつけられていたショスタコーヴィチのお気に入りの作品で、なにより一度は当局が正式に否定した作品に手を出す者もなく、冷戦の終わりを目前にした1989年にゲンナジー・プロヴァトロフの指揮、モスクワ国立交響楽団によって世界初録音が行われて、ようやく”封印”は解かれることになる。2004年にはレオン・ボッツスタイン指揮ロンドン交響楽団によるレコーディングによってその真価が広く世界に知られた、”あの”ショスタコーヴィチの第四番に先行した問題作がついに日本でも演奏されるわけである。

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ガブリイル・ポポフ(1904-1976)はショスタコーヴィチより2年年長で3年ほど先に亡くなっている、まったくの同時代人で生涯の同僚、友人だった。六つの交響曲(第七番は未完)他、多様なジャンルで多くの作品を残したポポフだが、上記の事情もあって交響曲第一番の前後で大きく作風が変わっている。ヒンデミットやシェーンベルクなどのモダンな作品に大きく影響されて奔放な活躍をしていた初期の作風は否定されたため、当局が求める社会主義リアリズムへと大きく創作の傾向を変えたのだ。せめて、第一番に続いて構想されていたという”第二”の交響曲※が作られていれば、これほど忘れられることもなかっただろうけれど、当時のソヴィエト社会が求める作品を作るようになったポポフは後世の評価としては残念ながら「ソヴィエトの凡百の作曲家のひとり」として生涯を終えている。

※実際に書かれた第二番(1943)は映画音楽を元にした作品で、第一番とは似たところのない穏当な、古典的ですらある曲調となっている

それでも彼の名を音楽史に残し、彼自身の転機となった交響曲第一番は、四管編成に大量の打楽器を用いた大オーケストラのための意欲的な作品だ。三楽章の交響曲であることも含め、直接にショスタコーヴィチの交響曲第四番の先駆的作品といえる。フレクサトーン特有の音型を管弦楽が模したようなフレーズや、大編成の管弦楽の咆哮、そして見逃せないフィナーレにおけるスクリャービンの濃厚な影響など、一度聴いたら忘れようもない強い印象を残す交響曲を作曲していたこの時、あきらかにポポフはショスタコーヴィチに負けない才能だった。そのことは今度の日本初演で多くの音楽ファンが認識することだろう。

生涯の友人同士が触発し合った作品だというだけではなく、ポポフの交響曲第一番とショスタコーヴィチの交響曲第四番には共通点がある。この二つの作品は、当時ナチスを避けてソヴィエトに亡命していた指揮者、フリッツ・シュティードリーにより演奏されているのだ(もっとも、ショスタコーヴィチの作品は上記のとおり最終リハーサルの後に”初演”は中止され、1961年にようやくキリル・コンドラシンによって初演されるのだが)。

ウィーンでグスタフ・マーラーに見出されてドイツ各地の歌劇場で活躍、後年メトロポリタン歌劇場と残した録音が知られるマエストロは、1934年からレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めている。ショスタコーヴィチの交響曲第四番の初演撤回について、長らく”シュティードリーがこの複雑な作品をこなせなかった””乗り気でなかった”などと批判されてきたものだが、既にショスタコーヴィチを刺激したポポフ作品を初演し、後年にはシェーンベルクの室内交響曲第二番を初演した彼が「マーラー的な作品を理解できなかった」というのはさすがに失礼ではないか?と筆者は長年感じている。むしろポポフの交響曲第一番をめぐるトラブルを経験していた彼が、才能ある作曲家が当局に挑みかかるような作品を創りあげてしまったことを誰よりも理解したがゆえに、演奏後のトラブルを心配して初演の中止を進言した、とは考えられないだろうか?…もちろんこれは想像でしかない、「正解」は歴史の闇の中なのだけれど。

政府が名指しでショスタコーヴィチを責め、交響曲第四番を作曲しながら初演しなかったその翌年である1937年にシュティードリーはソヴィエトを離れ、彼が担っていたレニングラード・フィルの常任指揮者後任には当時まだ30代前半の若きエフゲニー・ムラヴィンスキーが着任、ショスタコーヴィチの交響曲第五番を初演して長きに渡る指揮者と作曲家の交流が始まる。ポポフの交響曲第一番はそんな時代の音楽だ。長く封印されたその音楽は、80年の時を超えてようやく日本でも鳴り響く。(本文終わり)

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これにですね、もう一つか二つのショスタコーヴィチのコンサートを組合せた記事にすることを考えていたんですが、ちょっとその構想の時点で夏バテだったようです。自覚症状がないって怖いですわ。
その続きはそう長くないもののはずなので、あとでちょろっと書きますね。ではまた。

※追記:続き、ちょっとだけ書きました。はじめからB面寄りのテイストですみません(笑)


2016年8月1日月曜日

きっと往年のあれはこういう ~東京フィルハーモニー交響楽団 第883回オーチャード定期演奏会

こんにちは。千葉です。

夏バテからのリハビリで、編集機能を発揮せず書きます。…ぼかさずにはっきり書くと「思いつくこと思い出せること全部、ダラダラと長く書きます」です、すみません(笑)。

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さて伺いましたコンサート、おそらくこの日受け取った感触は9月の公演紹介で参照しそうには思いますが、単独の記事に残すべき価値ある公演でしたのでここに。

●東京フィルハーモニー交響楽団 第883回オーチャード定期演奏会

2016年7月24日(日) 15:00開演 開場:Bunkamuraオーチャードホール

プッチーニ:歌劇『蝶々夫人』(演奏会形式・字幕付)

指揮:チョン・ミョンフン

合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

キャスト:

蝶々夫人(ソプラノ):ヴィットリア・イェオ
ピンカートン(テノール):ヴィンチェンツォ・コスタンツォ
シャープレス(バリトン):甲斐栄次郎
スズキ(メゾ・ソプラノ):山下牧子
ゴロー(テノール):糸賀修平
ボンゾ(バリトン):志村文彦
ヤマドリ(バリトン):小林由樹
ケイト(メゾ・ゾプラノ):谷原めぐみ

チョン・ミョンフンをオペラ指揮者として認識しながら(かつてバスティーユ・オペラとしてパリ・オペラ座が大々的にプロモーションされたころに彼を知った、そういう世代なのです)、なかなかその実演に触れる機会がなく。ついに得られたこの機会は演奏会形式ながら期待しかない公演は、前々日のサントリーホール公演が早々に完売し、こちらのオーチャードホール公演も当日までには完売しておりました。さもありなん。

新国立劇場の舞台に多く触れ、かつアンドレア・バッティストーニのリハーサル&コンサートを取材する中で「なるほど東京フィルはイタリア・オペラを得意とする、オペラハウスのオーケストラのような性格が強いのか」と感じられてきたので※、このめぐり合わせ自体は大歓迎ですし、千葉は「蝶々夫人」を名作と断じる者でありますので、この演奏会は大いに楽しみにしていました。予習として、IMSLPからスコアをダウンロードして、お気に入りのロス・アンヘレスの盤を聴き直して(この盤、何がいいってユッシ・ビョルリンクのピンカートンが「バカだけど悪いやつには思えない」真摯な歌唱なので何を歌ってもいちいち怒らなくて済むのがいい←酷い評価基準ですが、ピンカートンだけは何かに障るものがある系男子なので許してください)。スコアを見ると、割と何の変哲もないイタリア・オペラのスコアっぽいのにあの音がするあたりがプッチーニの技なのでしょう、とは思うがまだ踏み込んで書くほどの認識ではないので機会があればまた(後日きっと、必要に駆られて「ラ・ボエーム」のスコアも眺めなければならないでしょうから)。

※もちろん、個人的な感触なので誤っている可能性はあります。あえて言うならば「東京フィルと同様に多くその演奏を取材して、同じく新国立劇場のピットでも活躍する東京交響楽団との比較において」とより正確を期した注釈をしてもいいかなと思います。首都圏のオーケストラ、それぞれの個性を紹介できるよう精進しますよ。

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そんなわけでそれなりに準備万端で伺いましたよオーチャードホール。渋谷駅の雑踏が恐ろしいので神泉駅で降りて一路Bunkamuraへ(駅前のうるささは、たまに行くとあの環境を許した人の正気を疑う水準です。その喧しさをアトラクションと感じているのか、欧亜問わず多くの外国人観光客がいたのはなんというか。あと、お嬢さん方のメイクの雰囲気が比較的よく行く新宿とは違うのかな、とか思ったりして、渋谷も変わったものだとか訳知り顔をしてみたくなり申した)。

久しぶりのオーチャードホールの舞台には、前方に幾つかの椅子と平台があり、そしてふだんはピットにいて見えないプッチーニのオーケストラがみっしりと居並び、その後ろに合唱席が用意されていて、これが既に見ものなのです。特に打楽器。弦楽器の編成が大きめなのはピットのサイズからくる制約がないからこそ、でしょうけれど、プッチーニはワーグナーに影響を受けた世代の作曲家なのよねえ、と開演前からしみじみと思うのです。そう、流麗なメロディに心動かされるドラマはもちろん魅力だけれど、それに加えてオーケストレーションの巧みさがね。舞台にオーケストラが乗った状態であればストレートにその響きが客席に届くわけで、プッチーニの技を存分に楽しむのに不足はない。というところまで書いて、ようやくコンサートは始まります!みんなー、着いてきてるかなー?(

念願かなって聴くことができたチョン・ミョンフンの音は、冒頭からしばらくその精度の高さ、音楽の流れの良さに感心しながらもちょっとだけ「あれ?」と感じた部分がありました。冒頭からしばし、音楽自体は淡々と進むんですよこれが。ことさらにゴローを変な人にしないし、アメリカ人二人も落ちついて会話しているようなトーンに収まっていまして。そして肝心の東京フィルの落ちついた音色はこれまで聴いたことのない、クリアなのにどこか影のある感じの独特の感触、通常のオペラ上演ほど多くのリハーサルはできていないだろうにここまで音を変えてしまうのか、オケは変わってしまうのか……などと考えながら聴いていた、その気分が変わるのに時間は要りませんでした。蝶々さんご一行が現れる、その瞬間に舞台が彩りを得たその瞬間の美しさときたら。もう。
そう、男たちはこの瞬間まで植民地相手丸出しのお取引をあたりまえの、つまらないこととして淡々と進めていた、それがいざお相手の登場となった瞬間に文字どおりに色めき立ったのだ。その情景が音だけで美しく示され、その瞬間に聴き手に伝わる。なるほど、これがいまやスカラ座でヴェルディを任せられる指揮者の仕事か!と目が醒めるような思いをいたしましたよええもう強かに。

そして登場した蝶々さん、ヴィットリオ・イェオは鮮やかな和装もお似合いで、歌っていなくてもつい見てしまうほどの存在感。それ故に、このセミステージ形式がまるで舞台上演であるのかのように感じられてくるのはこの作品が圧倒的にヒロインにかかる比重の大きい作品だから、ということはもちろんあるのだけれど、それでも彼女の存在感は素晴らしい。
ちょっと先走ることになるけれど、スズキ役の山下牧子も小間使いの和装で蝶々さんとともに活躍するから、二人の場面はもう完全にオペラ上演ですよ。第二幕とかもうどうしろっていうのよ(泣)。そんなわけで、存分に「蝶々夫人」を堪能したことでした。

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もういい加減長いのだけれど、最後にちょっと余談を。

地方にいた千葉青年はバーンスタインの没後それなりにクラシックの人になりまして(それまではCDをよく聴く方の吹奏楽の、テューバの人でした)。クラシックの雑誌なんかも読むようになれば「東京にどんなオケが来ているか」とか「話題のオケ公演はどんなものか」とか、そういう知識は得られるようになります。
ちなみに年に何回か上京して都度コンサートに行くようになるのは20世紀も終わろうか、という頃のこと。その頃にはまず「マーラーの交響曲が演奏されること」を条件にコンサートを選んでいたから、オペラは選択肢にならず。仙台に来たブルノのオペラが上演した、演出に何の特徴もないいわゆる巡業用のプロダクションで「ドン・ジョヴァンニ」を聴いたのもその頃のことだけれど、それで「東京でオペラ見よう!」とは考えませんでしたねえ…そんな遠くから望見していた時期の事なれば、「リング」を引っ越し公演で上演していようが「炎の天使」のヤバい上演とか、それこそ新国立劇場の開場も遠い話でしかなく。

である以上、当時の常任指揮者、若き大野和士の元でなかなか舞台では上演できない数々のオペラ作品をコンサート形式で演奏した東京フィルハーモニー交響楽団の往年の名企画「オペラ・コンチェルタンテ」も知識として知るのみでした。この日、舞台前方の平台ほかを活かしたちょっとした演技(いや、蝶々さんは完全に演技もされていましたね)、そして照明だけの簡素ながら作品の魅力がよく伝わる演出でプッチーニの音楽をそのままに伝えてくるような演奏を聴いていたら、ちょっとだけ「十数年後に経験できるから酸っぱい葡萄とか思うなよ」とかつての自分に教えてあげたくなりました(笑)。

ではまた、ごきげんよう。