2016年10月11日火曜日

書きました:新国立劇場『ワルキューレ』名唱の饗宴で初日開幕!【シリーズ『ワルキューレ』#6】

こんにちは。千葉です。

先日の台風、静岡あたりで弾かれて南側に抜けて消滅した、という不思議な進路を辿ったわけですが、今合衆国東南部を襲っているハリケーンも陸に当たって東に流されて、なかなか厳しい被害を出しそうなことになっている模様で。
こういう事象に対して、説明可能性だけで考えるなら、大ざっぱな”異常気象”よりは偏西風の流れる位置の変化を想定したほうがいいような、気がしますけれど、まあ素人がそれを考えてもどうにもなりませんなあ…

床屋政談ならぬ床屋気象予報はさておき、書いた記事のご紹介です。


すでに上演も半ばを過ぎて、初日以降も歌手の皆さんもオケの皆さんもハードな演目と全力で戦っていらっしゃることでしょう。千葉からは初日のレポートとして、舞台と作品の読みを主眼とした記事を出しております。
一言で言ってしまうと「この舞台、けっこう好きよ」ということになりますが、さすがにそれでは何も伝わらないな…とけっこう長文ですけれど、多くの舞台写真を差し込んでもらうことできっと「ヴァルキューレ」という作品と今回の舞台について、一読でそれなりにおわかりいただけるかと。

****************

記事には書かなかった部分を少々、というかけっこう長く書きます。記事に書いても問題ないないようなのですが、流石にあれ以上長い文を読んで下さい!とは申しにくいのです。

この舞台を見ていると、ワーグナーは「指環」という作品でもまだ女性による救済を希求していたのではないか?という気持ちになってきます。初期作品でそのモティーフはやりつくしたはず、と思っていたのですけれど。
この作品ではヴォータン、ジークムント、そしてフンディングとそれぞれに力のある男性が描かれます。ヴォータンは神々の長、ジークムントはその血を引く人間の英雄、そしてその敵であるフンディングにしてもグループのリーダーとして君臨する、強い男性と言えましょう。しかしながら、本作ではヴォータンは自らの力の根源である契約に縛られて求めるものは得られない。ジークムントは無双の英雄でありながら不遇としか言いようのない境遇に加えて最後の局面では父に裏切られる形で敗北する。フンディングは単独ではジークムントに立ち向かえずフリッカを頼って勝利を得るもその行為自体がヴォータンの逆鱗に触れるものとして落命する。こうしてみるとわかるのですが、誰も何もなし得ていない…
この舞台はその感を抑えるどころか、より強めて示します。ヴォータンはその感情に左右されやすいところを演技で強調する。ジークムントは迷いない存在として表される、まったくぶれない視線はその一本気を強く、しかし脆いものとして印象づけるかのようだ。対してフンディングは文中でも書いたのだけれど往年の西部劇でよく見たタイプの典型的な悪漢スタイルで見るからに勝てる要素が全くない(笑)、それに悪役に擬せられながら権威(フリッカ、婚姻を司る神)にすがろうという姑息さも好感を呼ばない。と、三人共に酷いことを言いましたが、実際この舞台では男性たちがダメなんです。

第一幕はそれでもまだいい方で(戦いはこれからだ!愛し合おうぜ!で終わりますからね)。第二幕には美しく着飾ったツィトコーワのフリッカの前にまともに反論もできないグリムスレイのヴォータンがなかなか哀しいし(彼は存在感あってかっこいいのに)。ちなみに、フリッカが艶やかに着飾っているのはこの大作の中では「ヴォータンとの間に子をなしていないこと」をことさらに強めたものであるようにも思われたし(この推測があたっているとすれば、エルダの描写はどうなるのだろうと心配になる)。そう、ヴォータンに注目してこの舞台を見ていくと、まさに神の没落、黄昏への一本道として捉えられるようにも思うわけですよ。

対してヴォータンを完膚なきまでに論破(笑)するフリッカ、苦難に満ちた生を生き延びることで我が子に未来を託すジークリンデ、そして本作の主役たるブリュンヒルデの生命力たるや。
フリッカは一般に損な役回りと見られがちだけれど、全能者たる神の放恣を押しとどめるこの作品では数少ないリミッター役(次作ではほとんどいませんからねリミッター)、こう存在感を示してくれると二幕の前半が引き締まります。台本通りではあるのだけれど「血の繋がらない娘」であるブリュンヒルデに対する邪険な扱いは一瞬「うわっ」と思いましたよ。ぶれないんですね、この舞台のフリッカは。
ジークリンデについてはこの作品中もっとも変化するキャラクターの一人です(最後に記事にならなかったオペラトークのレポートをつけますのでご参照いただきたいのです)。一幕ではまだ過酷な現在に囚われた存在として、二幕ではその過去に苛まれる存在として、三幕では絶望を超えて未来を志向する存在として、それぞれに印象的に現れるジークリンデは、幕ごとに歌い方も変えていたように思います。もし第一幕で「硬いかな?」と感じられた方には、「もしかして役柄としての表現が違うのかも」と私からは意見させていただきます~。

で、ブリュンヒルデについては本作の設定を確認しておきましょう、というのが私からの提案です。おそらくはティーンのお嬢さんの彼女はお父様のお気に入りとしてお姉さんぶっている。与えられた任務を疑わずに優秀にこなしてきた、そんな第二幕冒頭の彼女が変化していく姿が女性側のメインです。
この作品が終わった時点から見れば、彼女は神としての力を失いファイアウォール(おい)に守られて眠り続ける、という敗北エンドっぽい。でも”人間的”成長をもっともしてみせる存在でもあります、というか彼女が”条件闘争”を戦わなかったら、彼女はジークリンデの人生を繰り返すだけの存在に成り下がっていたはずです(しかもジークムントなしのそれだから、その生涯はより過酷なものになったことでしょう)。この作品での彼女は、よりマシな条件で生き延びることこそが、いわゆるトゥルーエンドだったのでしょう。とても喜べるものではないわけですが。

正直なことを書きます。多くの方が心動かされた第三幕の幕切れに至るヴォータンとブリュンヒルデの対話ですが、千葉には先程書いたとおり、ブリュンヒルデの”条件闘争”に見えてしまってなんともやりきれないものでした。彼女はこの作品では成長してなお「父のいい子」からは抜け出せない。「神々の黄昏」の最後、全曲の大詰めですべてを知ってようやく父の失敗ごと炎で消し去る、言いかえれば自分ごと世界を別の形に改める決断をする存在になるわけです。だからここには、”家庭の暴君に抵抗なく仕えてしまう優秀なお嬢さん”を見るような哀しさがあったように思うのです。それにあの別れの場面、過剰に思えるスキンシップは父娘の共依存的関係をも想像させるもの、もっと踏み込んでヴェルズングの兄妹に重ね合わせるように近親姦を想像させるものだった、のではないのか。お父さんいけないわ!(ヤケ気味)

で、ですね。このあたりの作品の持つリスキィな性格の見極めに、ゲッツ・フリードリヒの仕事の確かさを感じたんですね、千葉は。作品の全体を見据えて、今がどこなのか、登場人物たちがどこまで変わりうるのか、などなどを個別の作品の中に上手く落とし込むその仕事に。死体冒涜的な第三幕冒頭にしても「そもそも”ゾンビファイター”を大量に集めるヴォータンの姿勢がどうなのよ?」という糾弾に感じられたし、キャラクターの性格描写の端々に作品理解が示されていたように思います。
だからこの舞台、千葉はいわゆる読み替え演出だとは感じませんでした。もちろん「往年のオットー・シェンク時代のMETのようなものが台本通りだろ!」と言われたら、この舞台はそっちには入りませんけどね。でもちょっとした部分にしのばせた精神分析読み(第三幕でジークリンデが折れた剣を抱きしめて歌う場面はかなりストレートなそれでしょう)なども含めて、かなり作品からの読み取りが散りばめられたものであるように思います。この作品に限らずワーグナー、かなり長い対話の中でお話の根っこが動くような展開も多いですから、こういう仕込みを読みながら聴くのがいいんじゃないかなって思うんですよ。手数が多い演出で圧倒されるのもいいですけど、こういう削れる部分を削って作品の読み取りを率直に示してくる舞台と対話して見るのもいいと思うんですよね。

そういう気持ちを一言にすると、「千葉はこの舞台、けっこう好きですよ」ということになるわけであります。何よりこの舞台は後二作の上演が終わらないと”正しい”読みはできない状況です。だから今のうちに、作品との、舞台との対話をしながら最後の舞台の幕が下りるまで楽しむのがいいんじゃないかなって申し上げたいのです。まだこの大作は道半ば、単独でいろいろと判断するのも楽しいですけど、次は、その次はどうなるのかと考えつつ読みを試みるのが楽しいんじゃないかな、って思うのですね。記事にも書きましたが「ラインの黄金」は世界を布置した、そして「ヴァルキューレ」で企みが成功しない/生き物の自然として男性性は継続性を持たないことの悲哀の強調がなされた。では、女性キャストが二人しかいない「ジークフリート」はどうなるのか、すべてが精算される「神々の黄昏」はどういう読みに基づいた舞台になるのか。幸い「神々の黄昏」までは丸一年、じっくり考える時間はありますから、本を読んだり録音を聴いたりいろいろできるはずです。IMSLPからスコアをダウンロードすれば音楽については知れますしね!ばっちりだ!(何がですか?)

先々の話になるけれど「ジークフリート」は東京交響楽団、「神々の黄昏」は読売日本交響楽団と、飯守泰次郎マエストロの元違うオーケストラが演奏することも注目の新国立劇場の「指環」、資料センターも駆使して楽しむのがいいと思っておりますよ。レパートリーシステムの劇場ならさくさくと次が来るところですけど(ヴィーナーシュターツオーパーさまとか、すでにあるプロダクションで短期間にチクルスを上演してますからね)、スタジオーネシステムの劇場だからこその数年がかりのプロジェクト、じっくり楽しもうじゃないっすか。と、思っているわけです。時間はある、と思って千葉はこんな本を読み始めましたよ。



幸いなことにその昔、ファンタジー的な世界に憧れて「ニーベルンゲンの歌」を読んでいたおかげでよみやすい!助かった!(本気)…失礼いたしました。ワーグナーに関する本は多いし、「指環」のレコーディングも山のようにありますから、ぜひ自分が納得行く範囲で学習して立ち向かうことをオススメしますよ。
オススメしないのは、抜粋だけを繰り返し聴くことですかね…たとえば「騎行」だけをよく知っていて実演に接する「ヴァルキューレ」、けっこう辛いと思いますよ?上演時間が全四時間超えの作品のうち、濃く楽しめるのが10分に満たない部分だなんて(それすらも管弦楽版とは違うもの)、まったく鑑賞の助けにはなってくれないっす。いやほんと。千葉はだから抜粋コンピ盤とかダメなんすよねえ…

とか脱線できるのは、たぶん書きたいことを書き終わったからでしょう(笑)、この辺で記事のB面を終わるといたしましょう。これからでも行ける皆さん、ぜひ新国立劇場の舞台を見て、ご意見ご感想的に千葉が許せないときはご意見くださいませ、無駄話でもいたしましょう(笑)。では本日はこれにて、ごきげんよう。

0 件のコメント:

コメントを投稿