2016年10月29日土曜日

総裁の言葉に得心 ~ウィーン国立歌劇場「ナクソス島のアリアドネ」

こんにちは。千葉です。

洗濯物やお野菜の高騰について思い悩む今日このごろではございますが(見事に悩んでもどうにもならない案件のみである)、昨日は先日記者会見に伺ったウィーン国立歌劇場来日公演、最初の演目「ナクソス島のアリアドネ」を拝見してまいりました。あの空のピットに素晴らしい音楽家が入り、空の舞台で芝居が展開されるわけで、期待しない訳がない。舞台は満喫できました、道中雨さえ降っていなければ文句なしでしたが(笑)。なんというか、つまるところオペラやコンサートに限らない一般論になっちゃいますけど、アートはきちんと体験しないと理解できないものなんですね、としみじみ。

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「ナクソス島のアリアドネ」というオペラについての説明的なものは割愛します(NBS様のサイトなどご参照くださいませ、音聴かないと、と思われる方はCDショップでベームの盤を買うなり(世代感)YouTubeで検索なり、手はいくらでもございますし)。今回の舞台の雰囲気は公式配信されているトレイラーでご確認くださいませ。



この舞台でのベヒトルフの演出は、あえて前芝居のドタバタを後半に地続きで持ち込むことによって劇中劇をカッコ内に収めるもの、言いかえればあくまでも「前芝居=現実/オペラ=フィクション」という虚実を混ざらないよう示すスタンスが根底にあります。だからメタフィクション的不安定はあまり感じない、楽屋話的に安心して見られる舞台となっていますし(人によっては微温的にすぎるかもしれない)、お話もこれ以上なく収まりよく着地します、アリアドネとバッカスは上演が終わればプリマとテノールに戻って笑顔でお疲れさん、さらに作曲家のドラマまで回収して幕は降りるのです。混在する二つのグループは衣装で明確に見分けられるのだけれど、現実サイドと地続きである以上オペラパートは「先ほどまでやりあっていた彼ら彼女らによって、強いられて半ば即興的に演じられるお芝居」として見ざるをえないわけです。

作中でその場しのぎに歌われ演じられるオペラ(として作られた作品←言葉にするとややこしいけど見れば一目瞭然)は、そのままではフェリーニの映画のように別の水準にお話を持ち込まなければ終われないのでは?(それこそ終わらないパーティ空間が荒廃するところまでやっちゃうとか、オケがリハーサルしている会場が破壊されるとか謎の行進がはじまるとか、そういうあれ)ともなりかねないわけです。実際、ツェルビネッタが示すオペラ・ブッファ(とその前提にあるコメディア・デラルテ)と、アリアドネが示すオペラ・セリア(これも前提はあって、そのものずばりギリシア悲劇ですね)はまとまらないよね?と思い始めたまさにその瞬間に登場するのがバッカス、これでこそエクスデウス・マキナでありますよ神様ありがとう。そしてそのバッカスを演じたステファン・グールドの素晴らしさたるや、それはもう。

これは記者会見の記事では書ききれなかったのですが(文字数の関係)、ドミニク・マイヤー総裁はコメントの中で何度かグールドが出演できることをうれしく思っている旨、特別に言及されていたんですね。作曲家役のステファニー・ハウツィールも代役だけれどこちらはカンパニーのメンバーだからあえて言うこともないのかな?とも思えて書きにくい気持ちがありました。
しかしながら実際のところはさにあらず。まず、毎年この作品を上演するカンパニーで、メンバーが代わる代わる登場することはオペラハウスの、とくにもレパートリー方式を採用するウィーンではこうしたアンサンブルの変更はある意味”日常”なのでしょう。その中でいつもどおりのパフォーマンスを発揮してくれるだろうハウツィールについては心配などするわけもなく、安心してお任せだったのですね。彼女自身が会見の中で「特に前芝居でがんばる役ですね(笑)」と話していましたが、あのバタバタしやすい芝居の中であれだけ自由に振る舞える彼女に対して今さら心配する方がむしろおかしいのです、彼のカンパニーで信頼されている大切なメンバーなんだもん当たり前でした。邪推してごめんなさい(笑)。

そしてグールド。特にバッカスとしての彼ですが、これはねえ。先日の新国立劇場でその歌の威力は知っていましたから、また登場してくれるんだうれしいなあくらいのつもりでいたんです。会見で「このプロダクションを作ったときのメンバーですから心配はない」と話していましたから、そりゃあ総裁も力強いよね、ボータの逝去という残念な理由による代役だけどひと安心だね、位の話かなってメモを取っていたあの日の千葉を叩いてやりたいです。新国のあと台湾で「大地の歌」(国立交響楽団、指揮はオッコ・カム)を歌って今回の舞台と、この二ヶ月東アジアで大活躍ですよ彼。
この混沌を「神の声」で収めなければ芝居が壊れる……!という、この作品では、というかこの演出では絶対的な存在感が求められる難役がバッカスなんですね(北島マヤかお前、いやそれよりメタフィクションはあらかじめ壊れているね、とかツッコミはなしでお願いしますすみません)。
その大役を信頼して任せるはずだった、ヨハン・ボータの永遠の不在によって開いてしまった穴がどれだけ大きかったか、そしてどれほどの衝撃だったか。この上演を経験した今にして、ようやくその痛みが理解できたようにも思っています、彼もまた英雄として”神”たりうるテノールだったのですね、と。千葉は残念ながら彼の声を実演で聴く機会を得られなかったのですが(欧州で大人気、大活躍されている歌手は本当に多忙なので全盛期に日本で聴くことはそれだけでも難しいです)、彼の友人で今回彼の代役を務めるグールドによって、間接的にながらその存在を感じ取れたように思います。何を見ても何かを思い出す、であります。

本題に戻ってグールドですが。前芝居でも少々の出番はあるけれど、見せ場はやはりバッカスとしての登場以降です、というかそこからが長丁場でもう。それをねえ、圧倒的な存在感ともちろん声で場を作り出してしまうあたり、本当に旬の歌手なんですねえ彼…前に映像で見かけたジークフリートもよかったし、先日が初役だったというジークムントもよかったけれど、これはもう。逆光気味に舞台奥から登場して発した第一声で隣席の方が身を乗り出す気配を感じたほどの衝撃ですよ(これは実話)。悲壮感漂うジークムントとは違って、超然としたバッカスは迷いはあっても存在は揺らがない、その違いを声だけで示せる歌手が聴けて千葉は幸せでした。こう書くと技巧的には、とか体力は、とか思われるかもしれませんが、先月のジークムント同様盤石の出来でございましたので、日曜に聴かれる方はぜひお楽しみに。

神様(え)が美味しいところを持っていってしまったのですが、この作品のメインキャストはそれぞれに大役で難役です、しかもグールド以外のメンバーはオペラでは出ずっぱりに近ければ、登場一声場内を圧すとはなりにくい。いやそんなことをしてペースを乱されても困ります(笑)。
プリマドンナ/アリアドネのグン=ブリット・バークミンは「サロメ」(N響の公演を放送で聴いた)とはまったく違う役、それも文字どおりの二面性が求められる役(というか二役だからそれ!)を見事に演じ分け、さらに終盤の二重唱まで力強い声を維持しておりました。さすがです。会見では前芝居について「私たちの日常を描いたような」と笑いながら語っていましたので、前半後半ともこのオペラを楽しまれていたのだろうと思いましたよ。

ツェルビネッタのダニエラ・ファリーは前回来日(バイエルン国立歌劇場/リンク先は当時のもの。こうして自然にアーカイヴしてくれることのありがたさたるや。情報は残しておけばとそれだけで歴史的価値が出るんですよ!と声を大にしておこう)でも聴かせた同役で(千葉は未聴ですが下の動画参照)、確実な技巧と繊細な表現を両立してみせるあたりさすがです。
参考までに貼っておきますが、この動画はファリー自身のチャンネルであげている公式です。かつてもこれくらい力強く歌えていたこと前提に比較すると、今回はむしろ弱音で聴かせてきたような印象かなと。



ちなみにまったくどうでもいいことですが、千葉はもうおじさんなのでツェルビネッタちゃんくらいの恋愛観でいいような気がしてしまいますけれども皆さま如何でしょうか(回答は募集していません)。ロマン派の恋愛観、恋愛(自他の二者間関係、と普遍化してもいい)が世界そのものであり得る瞬間を描いたものだと理解してなお受け容れがたい気分になるんです、おじさんなので(しつこい)。「ウェルテル」とかね、そういう歴史に名を残す名作はできるだけ若いうちに、共感できなくても読んでおくべきなんですよお若い皆さん、年を取ってからは理解度は高まるけれど受け入れ難くもなりますゆえ(今度は説教か)。

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そして小編成のオーケストラを率いたマレク・ヤノフスキは、おそらく舞台に流されない、ある程度ステージから自立した音楽を意識されていたのかな、と感じました。そもそもが楽屋落ちというかメタフィクションというか、批評的意識を内面化した作品なのだから音楽もまた批評的な客観性を保つべき、と考えたのかもしれません、結果としてオペラというよりコンサート寄りの、器楽的なアプローチに感じられた部分もありました。会見で「数々の代表作とは違う、洗練された作品なので」と語っていたマエストロは音響的にも流れ的にもきっちり全体をコントロールして聴かせてくれました。かつてレジーテアター的な「音楽より演出を優先させる」上演を拒絶したマエストロによる「芝居より音楽」という主張だったのかもしれない、とも思ったり。この作品ならば舞台と音楽の相乗効果的なやり方(言ってしまえば悪ノリ的なそれ)もあるんじゃないかな、もしくは音楽だけでも虚構性を強調する方向に暴走してもいいのかな?なんて思う瞬間もありましたが、それではこの作品の持つ洗練からは離れてしまう、とマエストロは考えていらっしゃるのでしょう。
年齢を感じさせない積極的な指揮は先日拝見したふだんのお姿とはまったく違うもの、来年春の「東京・春・音楽祭」でもきっと引き締まった「黄昏」を聴かせてくれることだろう(そして我らが放送交響楽団とは相性がよろしかろう)、と認識させられる指揮姿でありました。

その指揮のもと演奏したウィーン国立歌劇場管弦楽団(ことだいたいウィーン・フィル)はですね、手の内に入った作品を演奏させたら世界一ですよね、いやはや。っていうかこの作品が手のうちに入っているあたりがすでになんというか。室内楽的、というよりむしろ独奏者的技巧や存在感が示せ、しかも小編成ながら十分な音量的クライマックスを最後の最後に作れる持久力もあるアンサンブルなのだから褒めるしかないのですよ。上手下手とか、言っても仕方ないと思っていますのに。こういうドラマ的なセンス、きっとあとの二作品ではもっと発揮されることでしょうね、編成も普通のオーケストラになりますし。
なお、国立歌劇場は来日公演の最中にも現地での公演を行っており、今月の上演回数は40階にも及ぶのだそうです。音楽の都の日常の水準がそら恐ろしく思えるエピソードでございました。

なお、個人的に得心できたのはこの作品でひそかに活躍しているハルモニウム(リードオルガン、ハーモニウムとも)の存在感ですね。その昔、今年何故か”流行”したマーラーの交響曲第八番で知ったこの小さいオルガンがこんなにアンサンブルの支えとして機能できる楽器だったとは。えっとですね、弦楽器がソリスティックに活躍している時間帯に裏でロングトーンをしている、独特の音色がハルモニウムですので、最終日行かれる方は要チェックです(いや気にならないかもですが)。

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「微温的かも」とは書きましたが、ベヒトルフの演出はホフマンスタールの含みの多い台本による作品を繰返し楽しめる舞台なのだろうな、という感じが見終わって一日が経ったいま、しみじみと感じております。読み取れること、読ませたいこともいろいろと仕込まれているのだろうこの舞台、何度も見られたらいいのに…と思う私のような人はウィーン国立歌劇場のオンデマンド配信サーヴィスを利用すべきなのかしら(頼まれもしないのにさりげない宣伝)。

それはさておき、ウィーン国立歌劇場の来日公演は明日が「アリアドネ」の最終日で、その次の日曜から「ワルキューレ」(ベヒトルフ演出)がスタート、少しずれて重なる日程でポネル演出の「フィガロの結婚」が10日(木)から横浜で開幕です。欧州の劇場で数多くワーグナーを指揮するアダム・フィッシャー、言わずと知れたリッカルド・ムーティが登場するわけですから、演奏の質はあらかじめ保証されたようなものでございます、お嬢様(執事か)。詳しくはリンク先でご確認するがよろしかろう、ほっほっほ(爺か)。

というご案内でひとまずはおしまい。ではまた、ごきげんよう。


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